魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(抄訳)ボードレール「エドガー・ポーに関する新しい覚え書(Notes nouvelles sur Edgar Poe)」(1/3)

ルイージ・ムッシーニ「スパルタ教育」。主人から過度の飲酒を強いられて、酔い潰れるスパルタ奴隷(ヘロイタイ)を描いた。ウィキメディア・コモンズより。

純粋詩(poésie pure) 」という言葉を最初に使ったのは誰なのか、私は知らないのですが、これを厳密な意味で、明確に定義可能な言葉として用いたのは、やはりボードレールが最初ではないかと思います。以下はボードレールの仏訳によるエドガー・アラン・ポーの二冊目の短編集『続・異常な物語(Nouvelles Histoires extraordinaires, 1857)』に附せられた序文の一部を日本語に訳したもので、これをお読みになれば、ボードレールと、彼に続く19世紀フランスのいわゆる「象徴派詩人」たちが、いかなる理想を胸に立ち上がったのか、今の日本の若い読者にもわかっていただけるのではないでしょうか。三回に分けて訳出します。原文はこちら


デカダンスの文学!――「古典美学」の聖なる門を守護する者ども、すなわち謎かけができるほどの知能もないスフィンクスどもの口から発せられるところの、大げさな欠伸あくびの叫びとともにしばしば聴こえてくる無意味な言葉だ。このような有難い神託を耳にするたびに、人は「この作品は『イリアス』よりも面白いのだ」と確信できる。なぜなら、ここで問題とされている詩もしくは小説は、必ずや、そのすべての部分が驚愕に向かって巧みに配置され、その文体は絢爛と装飾され、その言語と韻律の諸資源リソースの一切は、完璧な手腕によって活用されているに違いないからだ。このような寝言を聞かされるたびに――それは通常、わがお気に入りの詩人に対して、時折浴びせられるものなのだが――私はこう言い返したい衝動に駆られる。すなわち、「君たちは私を、君たちと同様の、物の値打ちがわからない人間バーバリアンだと思うのか?君たちは私が、君たちと同様に、退屈な詩や小説を有難がる人間だと、本当に思っているのか?」と。そうしてあるグロテスクな比較がわが脳髄にちらつく。二人の女が目の前にいるような気がするのだ。一人は田舎のおばさんで、ぞっとするほど健康で道徳的で、およそ見た目に気を使わない――要するに、素朴な自然以外、何もない女である。もう一人は、記憶を支配し、回想を圧迫する、そんな美女たちのうちの一人で――その独特の美貌を凝ったメイクでみずから飾り立てる、みずからの歩みの女主人メトレス、自意識家にして自分自身の女王――楽音のごとき美声であり、物思いに満ちた、みずからの願望のみを示さんとする眼光そのものである女だ。私がどちらを採るかは言うまでもない。にもかかわらず、何匹かの説教好きなスフィンクスは、古典に敬意を払わないと言って私を非難するのである。――とはいえ、たとばなしはさておいて、私としては、これらの博学な方々に対して、あなた方の博学はまったく空しく、まったく何の役にも立たないのだということを、ちゃんと理解しているのかと問いたい。デカダンスの文学という言葉は、文学に、おぎゃあと泣く段階、幼年期の段階、思春期の段階等々といった、段階というものが存在することを前提としている。この言葉は、私としては、たとえば人が免れることのできない天命のごとき、宿命あるいは神意による何物かを仮定していると言いたい。そうしてわれわれがこの神秘の掟を成就することを非難するのははなはだしい過ちだ。アカデミックな論調は、私に理解できる限りでは、この掟に従うことは恥であり、われわれは運命を甘受することで罪を犯すと説く。――太陽は、ほんの数時間前までは、その白色光線によって一切を圧倒していたが、やがて西の水平線をさまざまな色の光で水浸みずびたしにするだろう。この日没というドラマのうちに、詩人の精神は新たなるよろこびを見出す。彼らはそこに、目もくら列柱コロネードを、融解した金属による階段状の滝カスケードを、炎の楽園を、哀愁の光芒を、惜別の快感を、あらゆる夢の魔法を、あらゆる阿片の追憶を発見するだろう。日没は、彼らの目には、膨大な量の思想や夢とともに水平線の彼方へと消えてゆく、生命力に満ちみちた一つの魂の驚くべき寓意画アレゴリーとも映るであろう。
しかしながら、審判者たる大学教授たちの想定外だったのは、彼らの学童レベルの判断力には、まったく思いも寄らないような錯綜、もしくは結合が、この世の有為転変ういてんぺんにおいては生じ得るという事実だった。すなわち、一つの国家が誕生とともに退廃期デカダンスを迎え、他の国家が終わったところから始まるというような、およそ多様な形態を取って増殖するかも知れない現象における場合、彼らの非力ひりき語彙ごいは、これを表現しようにも、まるで不足していることがわかったのである。
現世紀における広大な植民地のうちに、新しい文学が創造されるとすれば、学者たちの頭を錯乱させるような心霊的アクシデントが発生しても、何ら不思議ではない。若くして同時に年老いてもいるアメリカは、驚くべき冗舌をもって、無駄口を叩き、たわごとを言う。アメリカに詩人は何人いるか?数え切れない。「青鞜ブルー・ストッキング」はいるか?雑誌を埋め尽くしている。批評家はいるのか?言うまでもなく、アメリカにはわが国フランスと同様、善良な衒学者ペダントたちがごまんといて、美術家たちに対しては常に古代の美を説き、詩人たちや小説家たちに対しては、その目的とすべき倫理性モラリテや、その創作の意図の上品さクオリテについて、絶えず注文を付けている。そこにはフランス以上に数多くの文字を知らない物書きがいて、幼稚な、無用の活動があって、孫引き専門家、二番煎じの専門家、盗作の盗作者や批評の批評家がうようよいるのである。このような凡人の沸騰バブルの中に、このように物質的進歩に夢中な人々の中に――これぞ無為無能なる国民の天下無敵性グランドールを示す新手あらてのスキャンダルとでも呼ぶべきであろうか――このように驚異に飢えた社会、人生が大好きで、とりわけ興奮に満ちた人生が大好きな社会の中に、一人の偉人が現れて、彼はただ単にその形而上学的精妙において、その思想の厳格にして心を奪う美しさにおいて、その分析力の強壮において、偉大であったのみならず、物真似芸人カリカチュールとしても偉大なのだった。――ここは少しばかり丁寧に説明しておかなければなるまい。というのは最近、ある軽率な批評家が、この私自身がエドガー・ポーに対するほとんど讃辞の一種として用いた大道芸人ジョングルール*1という同じ言葉を、この高貴な詩人の品位をおとしめ、わが讃嘆の真摯さを台無しにするために用いたからである。
物質に飢えた一つの世界の中心部から、ポーは夢へと身を投じた。アメリカの空気に窒息しながら、彼は『ユリイカ』の序文に書いた。いわく「私は夢みる人々に、夢のみを唯一の現実と信じる人々に、この書を捧げます」と。これは彼なりの立派な抗議だった。「モノスとウナの対話」*2において、民主主義だの進歩だの文明だのに対するもない侮蔑と嫌悪を吐露した人物は、自国の間抜けどもを連れ去り、野次馬どもを熱狂させるために、もっとも熱烈に人類の尊厳を讃え、現代人のうぬぼれに対してきわめて有効なデマ報道*3を、もっとも巧妙にでっち上げたのと同じ人物であった。こうした観点から見ると、ポーは私の目には、あべこべに御主人様を酔わせて赤面せしめんとするスパルタ奴隷ヘロイタイのように見える。結論として、私の考えをより明確に断言するなら、ポーはその高邁な思想においてのみならず、ジョーカーとしても、常に偉大であった。

*1:訳者注:ボードレールの仏訳によるエドガー・アラン・ポーの最初の短編集『異常な物語(Histoires extraordinaires, 1856)』の序文「エドガー・ポー、その生涯と作品(Edgar Poe, sa vie et ses œuvres)」の中で、ボードレール自身が使った言葉。

*2:訳者注:ポーが遺したプラトン風の対話篇の一つ。拙訳をご参照ください。

*3:訳者注:エドガー・アラン・ポーの短編「軽気球虚報」(1844年)。