魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

門井慶喜『なぜ秀吉は』

出版社による『なぜ秀吉は』の広告。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介文をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


門井かどい慶喜よしのぶ『なぜ秀吉は』(毎日新聞出版)を読了して。
豊臣秀吉はなぜ文禄・慶長の役を強行しなければならなかったのかの謎に『家康、江戸を建てる』の著者・門井慶喜が多角的な視点から挑みます。秀吉はなぜ最晩年に「唐入からいり」に固執したのか。
戦国時代の末期から江戸時代初期の大坂、肥前名護屋城)が舞台です。
西暦1585年~1638年頃の物語でしょうか。

プロローグ

この物語は、秀吉の異父弟(実弟?)の大和郡山城主・羽柴秀長が、自分の居城から大坂城へと向かう道中、兄・秀吉とくつわを並べながら心中の煩悶を点検する場面から始まります。場所は、生駒越えの難所・暗峠くらがりとうげです。その暗峠で小休止し、茶を飲もうとした瞬間、石礫いしつぶてに茶碗が粉砕されます。秀吉は刺客に襲われました。犯人は陶工カラク(本名・鄭憲)です。
周囲はカラクの処刑を勧めるのですが、どうしたことか秀吉はカラクを解き放ちます(無罪放免)。事件などなかったかのように大坂城に入ります。

神谷宗湛

1587年(天正15年)正月、秀吉は、筑前・博多の豪商、六代目神谷善四郎(宗湛)を招きます(カラクの親代わり)。秀吉の茶頭を務める津田宗久を始めとするいわゆる堺衆と初めて顔を合わせます。秀吉からの“天下一のもてなしをしたい”とのことばを信じた訳ではないが、人を人とも思わぬ治部少輔じぶのしょう石田三成の態度や、朝鮮渡来の井戸茶碗を使用した千利休の手前に秀吉の「唐入り」の本気度を見る。そして同じく博多の豪商・島井宗室と協力関係を保ちながら、博多の経済復興を目指す計画が何故捗らないのかに思い当たる。
宗湛は、カラクの無心を受けて寄宿舎、轆轤ろくろかま付きの陶工の集合体(村)を作る。
これは、失業者対策や地域の治安維持の側面もあります。いずれ博多周辺に「唐入り」の前線基地がつくられる事を想定して、芸術品ではなく、日常使いの瀬戸物(百円ショップで扱うような)の大量生産、あるいは城や武家屋敷を築く際の瓦の大量生産が必要となる機会を見込んでの先行投資とも言えます。

他の登場人物

他にも登場人物は多士済々です。
宣教師オルガンティーノの上司ポルトガルガスパルコエリョ。傲岸不遜で空気を読まない彼はオルガンティーノを余り評価していない。宣教師ヴァリニャーノの地位はこのコエリョよりはるかに高い。ジュストの洗礼名を持つ高山右近。同じくキリスト教徒の小西隆佐りゅうさ・行長父子(「唐入り」反対)。鍋島直茂なおしげ黒田官兵衛加藤清正らの九州の大名の外に、徳川家康前田利家、豊臣秀保ひでやす(秀吉の甥、「殺生関白」と言われた秀次の弟)。清須会議でも活躍した堀秀治、木下延俊、古田織部、東北の雄・伊達政宗などが出てきます。
また、重要なポジションは任されることはないものの、佐竹義宣増田ました長盛なども出てきます。
彼らは皆等しく、筑紫・名護屋城の地面をならすところからの任務を負っています。
そして、自分たちの陣屋も建てなければなりません。武士階級として、他家に見劣りしない陣屋を建てる必要性に迫られます。このため、カラクの工場では昼夜を問わず、300人の陶工が不眠不休で生産活動に従事することになります。
何故そうまでして秀吉は「唐入り」にこだわるのか。それは誰にも判らないし、理解のしようもありません。
中でも徳川家康は、北条氏滅亡後の後釜として、関東移封を命じられたばかりでした。この時点では左遷とも思われるのですが、やがて江戸の町が出来上がります。
家康は、二回ほど良くも悪くも人前で、秀吉自身から「唐入り」の動機を聞き出そうとしますが、秀吉が機嫌よく喋ろうとすると、火急の報せが入ったりします。なので、家康にしては珍しくイライラします。
またカラクの慕う年上の武家の女(?)草千代。慕ってもどうなるものでもないと思いつつもその思いを止められない。果たしてカラクの取る行動とは?
最後の猿楽の舞台で、その謎が明かされます。

徳川家康の江戸の町造りに興味のある方は『家康、江戸を建てる』もお読みください。
僅か数年(六年程?)しか活用されなかった名護屋城建立の物語をお楽しみ下さい。
後年、朝廷から東照大権現の尊号を受け、神となった徳川家康は、なぜ一国一城令を徹底したのかが解き明かされます。
何が人々を戦に駆り立てるのかの心理描写もお楽しみください。
天一