表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
澤田瞳子『泣くな道真 大宰府の詩』(集英社文庫)を読了して。
『星落ちて、なお』で直木賞を受賞した澤田瞳子が、政権争いに敗れ、日本史上もっとも有名な「左遷された男」となった菅原道真の、明日に向かって生きる姿をユーモラスに、時には諧謔を込めて描きます。
菅原道真、失脚。
【道真は止足の分を知らず、専横の心があり、前上皇を欺いて廃立を行おうとした。およそ大臣の職にあるべき人物ではなく、法のままに罪するべきだが、特に念うところあって、太宰権師に罷す】
この詔の「前上皇」云々の部分、実は道真には何の罪状も無く、証拠もない。家格が高いとは言えない道真の異例のスピード出世が、左大臣・藤原時平やその周囲の権門の貴族たちに疎まれ、憎まれ、左遷の憂き目に遭ったのだ。
道真は官僚として、驚異的な速さで出世街道を驀進してきた。
二十六歳で官吏登用試験の“方略試”を突破。少壮の官吏として頭角を現し、兵部少輔、民部少輔に任命され、宇多天皇に仕え、やがて朝廷になくてはならない存在と目される。
同じころ私塾「菅家廊下」を創設し、多くの能吏を輩出、評価された。五十五歳にして右大臣にまで昇り詰める。
しかし、栄達の後、転落する。都から追放され、苛酷な大宰府への片道切符の旅が始まる。路銀は自腹で、つまり道中の宿・食料は自費で賄わなければならない(流人の扱い)。
おまけに太宰府では、政務を執ってはならぬとの条件だ。
この有様は『菅家後集』の「叙意一百韻」に歌われている。
道真一行は四人のみ。初老の道真、七歳の紅姫、五歳の隈麿、唯一の家人の安行である。
道真を迎える大宰府の面々
一番の責任者は、大弐・小野葛絃(実は演技派)です。その甥の少弐・小野葛根(武闘派で鳴る)が、部下の通称「うたた寝殿」(府庁きっての怠け者)太宰少典・龍野穂積に、道真の世話と監視を命じる。京からマイナス評価を受けないため、道真の日常生活を知る必要がある。
そこに、思い切りがよく、行動力のある小野恬子(葛絃の姪、葛根の妹)が、誰に頼まれたわけでもないのに、自然と関わってくる。
龍野穂積は、優秀な一人息子・三緒が成人し、大宰府の書記官に任命されたころから、入り婿の万年少典としての役割は終わったとばかりに、怠ける事に精を出し、勝気な妻(家付き娘)の督子に叱咤される日々を送っている。
かたや道真は大宰府到着当時、子供たちを顧みず、引き籠り、泣き暮らしていた。
「大弐殿は、都よりわしを密殺せよとの指令を受けているだろう。それをご機嫌伺いとは片腹痛いわ」
誤解である。それほど道真の心境は荒涼としていた。
恬子の活躍
かつて宮中で恋愛歌人として名を馳せた恬子は、右大臣としての道真を遠目から見たことがある。仕えていた内親王・為子が病没したので、宮中に居場所がなくなってしまった。
道真も自分も、どう足掻いても京には戻れない身の上。右大臣の地位も、女流歌人としての名声も昔のことだ。ならば泣き暮らすより、楽しく暮らそうではないか。その方法はある。物流の拠点、博多津の地の利による方法だ。
恬子は迷子になった隈麿を、屋敷に連れて帰った縁で道真の面識を得る。
その時恬子は、道真の余りにすさんだ様子に腹が立った。博多津の唐物商、橘花斎の老婆・幡多児が賄賂代わりに(大弐の姪だからご機嫌取りに)押し付けた青墨を井戸に投げ入れる。
恬子はその日のうちに、穂積を供として、道真を橘花斎へと連れ出すことに成功する。
道真は書画、陶磁器、文房四宝に精通している。
橘花斎では、目利きの恵宝に逃げられた直後だった。道真は生き生きとして、漢籍を十六の判別に分類する。“柳公権の漁夫の辞”を発見する。目の前でその様を見た幡多児は、尊大な態度を保ちながらも、道真と契約を交わす。その時名乗った名前が“菅三道”、ついでにでっち上げの身元も拵えた。道真は何故か幡多児の尊大な態度を気にも留めない。
道真は決まった日に張り切って店に出かけ、規則正しい生活を送り、子供たちとも余裕を持って接するようになる。
暗転
そんな道真を愛息・隈麿の事故死が襲う。
孫ほどの年の差の愛息の事故死は道真には真実堪えた。しかも朝廷からは何の悔やみの言葉もない。恬子が道真の屋敷を切り盛りする姿も板についてきた頃だった。
「わしはどこで間違ったのだろう」
「もはや無用の長物だ」
道真は食事もせず、譫言のように繰り返すばかりだった。
道真のその様子を見た穂積は、いつもの怠け者とは別人のように、役人生命をかけて叫ぶ。
「ええい、泣かれてどうなるというのです。道真さまのそのお目を府庫の欠損を埋めるためにお貸しいただけますか。それができなければ、朝廷からお叱りを受けます」
「欠損?」
穂積は両手をついて、事のあらましを説明した。
「大弐さまはご存じありません。そもそもは、豊原清友なる大帳司の算師が、正税帳を改竄したのが始まりでございました」
「要はわしに、その清友なる算師が使い込んだ銭を補填せよというのだな。しかも、大弐どのには内緒で」
道真の声に力が出てきた。
「さようでございます」
もはや泣いてはなりません。穂積は自分と道真に言い聞かせた。
楚の屈原が世情に悲憤慷慨して、袂に石を詰めて汨羅江に入水したのを真似るわけにはいかない。この地で生き抜かねばならないのだ。道真の顔つきが変わった。
補填のための謀略会議
早速、道真の屋敷で会議が開かれる。議長(?)は道真だ。
議題は、算師・豊原清友が、都合六年間で、総額千三百三十貫、何と太宰府の年間予算の一割強を超える額を使い込んでいた。着服していた。
この件を、朝廷に知られないように穴埋めしなければならない。時間の余裕もない。
どの様な有効な方法があるかです。道真は二つの方法があると言います。
参加者は、龍野穂積・三緒父子、小野葛根・恬子兄妹の四人です。
一つ目の方法は、博多津ではまず荷が付くと、役所が安く買い上げる習慣がある。いわば上納だ。この習慣に逆らって召し上げたそれなりに価値のある唐物(没唐物)を内密に売り払う案。これには小野葛根が、官品横領に当たるといって首を縦に振らなかった。
では、残るもう一つの方法は?
ここ博多津で一、二を争う唐物商・砡斎(主人は評判のよくない濱道)に、道真が橘花斎で安く仕入れた品を高く買わせる方法です。
この案には、葛根も消極的に賛成します。恬子も「兄さま、やりましょう」と。
この規模の店ともなれば、京の寺院を上得意として抱えています。必ずしも本物の名品は要らない。高額であればあるほど良い品だから、見せびらかし甲斐があると思うような向きもあります。書を飾れば帝や貴族から、莫大な寄進が受けられるのです。
生憎、橘花斎では見繕えなかったので、【法書要録】に記載されている、中国の書家・裴休の贋物を道真が拵えることになる。
「裴休は仏教に深く帰依していたので、黄檗希運の伽陀を記したら、贋作と見破られる事は無かろう。一本四百貫として、四本あれば足りるか。裴休は三十年程前に亡くなったので、当時の墨や紙も何とか入手できるであろう。穂積は、墨と紙の手配をせよ。なるべく古く、質の良いものを」
「そのお坊さんの伽陀は、何か書物に載っているのですか?」
黙っていた三緒が口をひらいた。
「愚かな。わしを誰だと思っている。かつて白居易にも肩を並べると謳われた菅相国だ。安行、墨と紙の支払いに充てる銭を用意せよ。足りずば、この屋敷の品物を売り払っても構わない」
愛児の事故死に茫然自失していた道真とはまるで別人だ。
道真の贋作は通用するか?
果たしてこの表に出せない企みの行方は、どうなるのか?
濱道が買い上げたとしたら、どの寺院に持ち込まれるのか?
この騒動の落ち着いた頃、恬子は何故旅立つのか?
ツクツクボウシが鳴く頃、恬子は奥州に向けて出立する。
終わりに
やれやれと思った頃に、奉幣使・藤原清貫が抜き討ちでやってくる。
道真の落魄ぶりを確かめる目的だ。道真が生き生きと暮らしているのを見れば、今度は東北にでも左遷されてしまうだろう。しょぼくれた道真を演じる必要がある。
果たして清貫を欺けるか?
「雲上人」道真は、どう泥にまみれようとも、本質は変わらないです。
太宰府に左遷された道真が、自分自身を取り戻す行程の物語をお楽しみください。
一天一笑
これまで言い伝えられてきた菅原道真像を陰画とするなら、これを陽画に反転させたような、全く新しい道真像ですね。驚きました。