魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岩井三四二『室町もののけ草紙』

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1994年のNHK大河ドラマ花の乱』で少女時代の日野富子を演じる松たか子。うしろは細川勝元役の野村萬斎https://aikru.comより。

表題の歴史短編小説集につきまして、一天一笑さんより作品紹介をいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二『室町もののけ草紙』(集英社文庫)を読了して。
足利幕府八代将軍足利義政正室日野富子を中心として、応仁の乱(1467年~1477年)と明応の政変(1493年)を軸に、室町時代後期の京の様子を描いています。
日野家中納言の家格ながら、足利義満の頃から代々正室として輿入れする慣習があったため、足利義政日野富子の結婚も決して貴賤結婚というわけではありません。
当時、足利将軍家では、将軍位をめぐる相続争いを避けるために、嫡男と認められる者以外の男子は、皆出家させる慣例となっていた。
時代背景としては、室町時代後期から、守護大名の力が強くなり、幼い将軍の在位が短期間だったり、六代将軍足利義教よしのりが家臣の赤松満佑みつすけに謀殺されたりで、足利将軍家の権力が衰退し、畿内に及ばなくなる一方、各々の大名家の家督相続が一筋縄ではいかなくなり、家を二分する内紛の勃発が、同時に進行していました。
四人の側室と一人の正室日野富子)を持つ足利義政は、のちに銀閣寺を建立するほどの作庭好きな将軍でしたが、当時の将軍御所(烏丸第)から、広い敷地を持ち、かつては“花の御所”と呼ばれていた室町第への移転を決定する。
無人なので荒れ果て、もののけが住んでいるとの評判も気にすることなく、経費の掛からない移築をする。手を入れながら室町第に御所をつくることに気力を注いでいる。
噂では、もののけの正体は、野狐か、将軍家に恨みを持つ者の死霊などと云われている。もののけに憑かれた者は、髪や衣服を切り裂かれるぐらいならまだしも、ひどければ病気で寝つき、果ては狂い死にの憂き目に遭うと人々に恐れられていた。
そのような時代を背景に、母としてよりは、むしろ将軍家御台所みだいどころとして生きざるを得なかった日野富子をめぐる九つの短編が収められています。

翳りゆく世に

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狩野正信筆「周茂叔愛蓮図 (しゅうもしゅくあいれんず)」(部分)。ウィキメディア・コモンズより。

将軍義政のお気に入りの絵師・小栗宗湛の助手を務める若き日の狩野かのう正信まさのぶが、貧困故に妻を病死させたことから、絵の描き方を変え、義政の同朋衆の芸阿弥の知遇を得るまでの奮闘を描く。

美しかりし粧いの、今は

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一休寺(京都府京田辺市)総門。「音阿弥」こと観世三郎元重の墓がある。ウィキメディア・コモンズより。

年相応に隠居をしたくても、戦乱ゆえに興行らしい興行もできない状況の中、観世座の危機を救おうと、可能な限りの搦め手を駆使する音阿弥おんあみの活躍を描く。

天魔の所業、もっての外なり

1473年の正月、二年前に患った中気ちゅうきから小康状態に持ち直した西軍の総大将・山名宗全の苦悩とその最期を描く。
戦乱で御所以外全て焼け野原となった洛中洛外を、高櫓から見下ろして、どうしてこのように戦が広がったのか、長引いてしまったのかが解らない。疱瘡・赤痢などの疫病の爆発的な流行も加わり、厭戦の雰囲気は戦陣にも隠しようが無かった。まるで天魔に魅入られたようだ。懊悩の末、年老いた山名宗全が取った行動とは?

将軍、帰陣す

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足利義尚像(部分)。狩野正信筆。長享元年(1487年)の近江出陣の姿を描いたもの。ウィキメディア・コモンズより。

九代将軍足利義尚よしひさの人となりとその最期を描く。
銀の匙を咥えて生まれてきた義尚だが、必ずしも幸福とは言えない。常に堂々と振る舞い、金儲けも上手く、ある意味押しつけがまく、相手の気持ちを考慮しない自己満足の愛情を子供に注ぐ母・富子に、窒息させられそうになった義尚。一万の軍勢を率いて、赤地金襴に桐唐草模様を浮かせた鎧直垂に、籠手と脇盾、脛当をつけて、馬上の人となり、腰には吉光の太刀、左脇に重藤の弓をかいこんだ。華麗な軍装を整え、近江遠征に赴いた。
父・義政とは一人の女官を取り合う醜態を繰り広げる有様となってしまった。
元服と同時に酒を覚えたため、義尚の身体は加速度的に酒毒に侵される。看病に駆け付けた母・富子は、長い間頭を離れなかった質問をする。
「将軍の座が、そなたには荷が重すぎるのか?」
九歳で将軍になった自分に選択肢はなかった。母は何故今さらそんなことを尋ねるのか?
「確かに荷が重いが、坊主は嫌です。今から出家せよと?」
「誓ってそのようなつもりはないが・・・」
病床の義尚は、母はまだ何かを胸の底に隠していると思った。
その謎は義尚の死の直前に明らかになる。
「おのれ、死霊。祟るならわらわに祟れ。何故この子に祟るのじゃ」
義尚は合点がいった。母は自分が将軍であろうとなかろうと、自分のことを思ってくれていたのだと。義尚は安心して旅立つが、富子はこの時から、自分が無理に将軍位に就けたため、義尚を早死(享年二十五歳)させたと終生罪悪感に苛まれることとなる。
この短編では、足利家の御用絵師となった狩野大炊助おおいのすけ正信が、再婚して得た十三歳の息子の四郎二郎を連れて義尚に陣中見舞いにやって来て、義尚に父・義政の近況を伝える。ご家来衆にと、四郎二郎の描いた鷹の絵を持参してくる。義尚は狩野正信の嬉しそうな顔を見て、その親子関係をどう思ったろうか。

長い旅路の果てに

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女嫌いの魔法使い、細川政元像(部分)。ウィキメディア・コモンズより。

夫・義政の没後、落飾して従一位の位を授かり、「大御台」「一位の尼」と呼ばれるようになった日野富子。四年前に息子の義尚を、その一年後に夫の義政を亡くして以来、義政の乳母だった今参局いままいりのつぼねを祀る祠を建て、僧侶に読経を依頼し、供養を続けている。
富子は、ある日思い立って、夫と息子の墓がある相国寺へ微行で出かける。
亡夫の肖像画を見ると、息苦しくなるほどの怒りに襲われるので、義尚の肖像画と向かい合い、幼い息子を無理に将軍位に据えたことを、泣きながら詫びた。
こうした感情のジェットコースターが収まると、まるで憑き物が落ちたようにスッキリした顔で輿に乗る。威容を整え(御台所時代を思えば簡素だが)、いつもの日野富子に戻る。
そして、自分の強力なバックアップがあったからこそ、将軍位に登れた筈の義材よしき足利義政の弟・義視よしみの息子=義政の甥)の余りの仕打ちに堪忍袋の緒が切れ、将軍の首を義政の異母兄、足利政知の息子・清晃せいこうにすげかえようと企む。
権謀術数には相棒が不可欠だ。細川政元日野富子が仕掛けた明応の政変は成功する。しかし、足利義高と名を改めた十一代将軍は、さして日野富子に感謝することはなかった。
義高は、かつて義政は自分を将軍に推挙したが、富子の横槍で取り消されたと思い込んでいた。

1496年2月24日、富子は紫宸殿の前庭で行われた親王主催の蹴鞠会に招待され、参内した。
富子は如才なく公家たちの相手を務めた。蹴鞠会のお開き後、清涼殿に立ち寄った。内裏の女官たちは富子を心から歓迎した。戦乱で荒廃した内裏の再建資金の調達に、富子が活躍したからだ。清涼殿の茶の間である御湯殿上おゆどののうえで、共に戦乱の世を潜り抜けてきた主上や長橋局、東の御方・花山院兼子たちと話が弾んだ。
主上の「東山殿(義政)は、立派であった。そこにいるだけで重石おもしになった」との言葉に、寡婦の身の辛さを舐めた富子は涙した。

清涼殿から寒々しい自宅へ戻った富子は、寝酒を飲んだ後、部屋の隅に白い小袖を着たもののけを見る。もののけが言った。
「長い間、邪魔したな。もう終わりじゃ。供養してくれたゆえ、望みをかなえてやった」
もののけは富子に背を向けて歩き出した。
富子は瞬時に理解した。自分も逝く時が来たのだと。
富子の死後、足利家は統制を失い、戦国時代に突入する。
ちなみに狩野正信の息子・四郎二郎は、画業に精進し、信長に安土城の襖絵制作を任されるまでになりました。

お気に入りの短編を紹介しましたが、他の四篇の短編も楽しめます。
戦乱の世を逞しく生きた日野富子。足利家に生まれた故の苦しみを味わう義政、義視、義尚。
荒れ果てた世に、自分に与えられた力と知恵を振り絞って生きた人々の物語をお楽しみください。
天一