魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

細川珠生『私の先祖 明智光秀』

f:id:eureka0313:20191103163849j:plain

表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

細川珠生『私の先祖 明智光秀』(宝島社)を読了して。
明智光秀の女系の子孫である著者が、父で政治評論家の故細川隆一郎氏を明智光秀に、自分自身を光秀の娘、玉(細川忠興夫人、洗礼名は著者と同じガラシャ)になぞらえ、親子関係を軸に、戦国武将・明智光秀の人となり、武将としての人生、本能寺の変の真相等を追及します。

明智光秀の前半生は?

一般に明智光秀は生年も含めて、出自は不明と言われています。本書では光秀のルーツを美濃(現在の岐阜県)の土岐氏に求めています。土岐氏美濃源氏の流れを汲み、土岐頼芸が「美濃の蝮」こと斎藤道三に追放されるまで連綿と約200年続いた名門です。
光秀の出自については、母はお牧の方(若狭武田家、武田信豊の娘)、養父は東美濃明智城城主、明智光安と推測されています。又織田信長正室濃姫武田信玄の娘、帰蝶)と父方か母方の従兄妹に当たるとの説もあります。この明智城が落ちてから光秀の約6年間の流浪が始まります。また、光秀のルーツが土岐氏にあることから、のちに愛宕神社へ参詣後、愛宕百韻連歌で、光秀は発句で「時」と「土岐」とを関連付けて、「今こそ信長を屠る“とき”」と詠んだと解釈されています。

光秀は流浪の間、何処で何をしていたのか?

越前の朝倉義景の元に腰を落ち着けたとの説、流浪しながら室町幕府将軍、足利義昭に仕え、そこで細川藤孝と出会ったとの説。いずれかの間に、南蛮渡来の砲術、日本古来の剣術を学び、六韜など兵法書を読み込む一方、一般教養、今で言う“おもてなし”のスキル等を身に着けたと思われます。
何れにしろ光秀は、流浪当時、既に妻木氏息女、煕を正室に迎え、子供もいたので、所帯維持の苦労は並大抵ではなかったでしょう。
流浪の最中、朝倉義景の元を出奔後、光秀は、奈良興福寺にほぼ軟禁されていた覚慶(還俗して足利義昭)を助け出し、以降1570年迄は、織田信長足利義昭(1568年“征夷大将軍”宣下を受ける)の2人の主人に仕える事になります。“2人の主”に仕える、これは胆力が要ります。やがて信長と義昭の不仲の解決の見込みが無くなると、光秀は信長を選び、丹波平定に心血を注ぎます。

丹波平定に尽力

光秀の出世の切掛けとなった丹波平定ですが、黒井城攻略を辛抱強く、計略を持って敢行します。つまり、本願寺顕如足利義昭をはじめとする反信長勢力と戦い、切り崩し調略を持って挑みます。いわゆる第二次黒井城の戦いでは、八上城波多野秀治・秀尚兄弟、有岡城の荒木一族を屠り、僅か9ヶ月の速さでほぼ丹波を平定するのですが、教養人・文化人の光秀の心に大きな疵を残します。
本能寺の変の遠因となったとさえ言われています。恐らく内心では信長に大いに遺恨を持ったでしょうし、主信長の命令は絶対だけれど、自分を押し殺して殺戮を続ける事に迷いが出てきたのかもしれません。
ともあれ1571年に琵琶湖湖畔の坂本城、1576年からは亀山城の築城や城下町の造営と、休む暇もなく働きます。『兼見卿記』によると、福知山城には光秀の腹心、明智秀満(左馬之助)が入城し、のちの山崎の合戦後、自害したと伝えられています。どの城に於いても几帳面にインフラストラクチャーの整備に努めたようです。スクラップ&ビルドの見本のようだったようです。勿論細川藤孝との交流は続いています。
光秀のこの功績に信長は如何報いたのでしょうか?『信長公記』の中にも記されています。
本能寺の変は、丹波平定後、約3年にして起こります。丁度坂本から中国地方への国替えを命じられて、明智家一同悲憤慷慨していたころですね。

光秀は、何故本能寺の変を起こしたのか?

本能寺の変の動機は?尽きる事のない歴史ミステリーですが、著者の細川珠生は諸説を4つに分類しています。①怨恨説、②野心説、③不安説、④黒幕説を挙げていますが、その中では①の怨恨説を支持しています。丹波平定に伴う光秀の個人的な恨み、比叡山延暦寺焼き討ちや、恵林寺の住持、快川和尚を生きたまま火炙りにした事などの積み重なりと推測しています。余談ですが、岩井三四二の『光秀曜変』では③不安説、宮崎正弘の『明智光秀五百年の孤独』では②野心説と④黒幕説、伊東眞夏の『ざわめく竹の森・明智光秀の最期』では④の黒幕説を支持しています。
岩井三四二の『光秀曜変』以外では、本能寺の変を起こした第一の目的の信長打倒、また後顧の憂いを絶つ為の信忠抹殺を果たした後、明智勢が迷走したのは、政権奪取後の構想を持っていなかったこと、細川藤孝筒井順慶高山右近等との共通認識がなかったこと、彼らは自分に味方してくれるであろうと楽観したまま、見切り発車で本能寺に突き進んでしまったこと、そして朝廷工作も一筋縄ではいかなかったこと等が書き記されています。光秀は本能寺の変で自分自身も燃え尽きてしまい(達成感があり過ぎたのか?)、主君の敵討ちの大義名分を掲げた“中国大返し羽柴秀吉に討ち取られてしまうというお粗末な結果となった(裏で何が働いていたにせよ、正史ではそうなっている)というのが共通して見られる認識です。

その他、細川珠生の考察

著者独特の観点から、家庭人としての光秀、娘たちにどの様な女子教育を施したのか(筆者は光秀が家族と起居を共にしている時間は殆どなかったと想像しますが、あったとしても常に仕事に心を奪われている状態だったでしょうね)、他にはキリシタン大名高山右近と玉ガラシャとの交流、ガラシャがどのタイミングで洗礼を受けたか、夫細川忠興の些かストーカー染みた玉への執着を割り引いて考慮しても、政略結婚にしては愛され妻だったと述べています。

終わりに

駆け足で紹介してきましたが、親孝行を軸にした、子孫から見た明智光秀像が好意的に描かれています(古田織部のように、秀吉により男系の子孫は根絶やしにされてしまいましたが)。
戦国武将に興味のある方、細川藤孝・忠興親子に興味のある方、ルイス・フロイスに興味のある方等にお薦めします。
天一

 

私の先祖 明智光秀

私の先祖 明智光秀