蘭丸たちの応戦
近習たちが御殿前に集合したが、誰一人として鎧兜の装着をしていなかった。
やはりこの入洛は不用心、無謀だったと蘭丸は思った。
「兄者、明智光秀さまだそうですね」
坊丸が言った。
「そうだ」
蘭丸は頷いた。
五十挺ある鉄砲は回廊にズラリと並べられた。それぞれ、火縄に点火され、弾込めが済んでいた。大きな庇が張り出しているので、鉄砲が雨に濡れる心配はない。北の方角にある妙覚寺の信忠にも救援要請の一斉射撃を行なった。
「弥助、上様はまだ起きて来られぬか」
蘭丸は入り口で戸を叩いている弥助に尋ねた。
「はい」
弥助は再び叫んだ。
「うえ、さま。あけち、みつひで、むほん、でございます」
慌てているせいか、いつもよりたどたどしい日本語だ。
「おのれ、光秀如きに上様は討たせない!」
蘭丸は明智勢を睨みながら、明智勢の兵力を素早く思い浮かべた。兵員数六千人前後、鉄砲はせいぜい三百挺。
「奴にこの寺は落とせない。我らは御堂の周囲で鉄砲を以て応戦する。女や坊主どもにも弾込めを手伝わせよ」
「ははっ」
坊丸が渡り廊下を御堂の方へ走った。そちらにも、鉄砲を持った一団がいる。
蘭丸は、一人が鉄砲三挺を使うことを指示した。回廊の手すりに鉄砲を乗せ、入ってくる兵士を狙い撃ちにした。明智勢の兵士は、森や植栽の間を駆け、玉砂利を敷いた庭に飛び出してくる。
遮蔽物が何もないので、バタバタと倒れていく。明智勢の勢いはその辺りで止まる。
「明智は雨のため、鉄砲は使えない」
蘭丸は年若い小姓に言った。
「弥助、上様を起こすのは一旦止めて、鉄砲を撃ってくれ」
「わかった」
弥助は鉄砲の名手で、飛距離の長い弾を撃てた。
「弾込めの人手が足りない。坊主は使えないのか」
蘭丸は怒鳴った。
「坊主はおらんぞ。臆したようだ」
高田竹虎が言った。
蘭丸は歯噛みをした。奴らは何処かに隠れて成り行きを見ているのだ。我らを助けるつもりなど無い。糞坊主ども。
「手助け致す」
「味方だ。討つな!」
京都の治安維持部隊の兵士たちが、明智勢の包囲をかいくぐって駆けつけた。これで兵員は二百人前後確保できた。
「信忠様の軍はまだか?」
「まだです」
「そうか」
「上様が脱出する手もあるのでは?」
坊丸が蘭丸に聞いた。
「いや、下手に動くよりここにいた方がよい。光秀ごとき愚か者、是非もないわ!」
蘭丸は、まるで信長が乗り移ったかのように言い放った。
だが、明智勢は前に戸板を何枚も重ねて盾をつくりだした。それでじりじりと包囲を狭める作戦らしい。
「大丈夫だ。ここは一刻(二時間)かかっても破られることは無い」
御殿の中ならば、鉄壁の守りが起動するものを・・・。蘭丸は次第に焦れてきた。
光秀
光秀が本能寺の門扉を開いてから、既に一刻以上は経過した。
雨はまだ降っている。
「まず本能寺の堂宇を獲れ。そこから御殿を狙え」
「本能寺の堂宇はどんどん墜ちています」
伝令が言った。
「よし」
光秀も堂宇伝いに進んだ。
本能寺の僧侶は皆無抵抗だった。僧兵は一人として見当たらなかった。
光秀は銃声や怒号の中でふと思った。
戦の形も変化したものだ。昔は源平合戦のころの面影があった。最初弓合わせをし、適当な折に突撃し、形成不利なら、すぐさま引き揚げる。戦国時代になり、太田道灌によって足軽衆が登場したが、まだ長閑であった。名刀自慢もあった。
戦ではあるがどこか儀式めいていた。何よりも戦死者の数が少なかった。せいぜい数十人。百人死んだら大戦の証となった。
今は桁違いに、死屍累々の惨たらしい光景が当たり前になりつつある。
おそらくは、上様が戦の様式を変えたのだ。信長が二十七歳の時の桶狭間の戦いが、その黎明だったのだろう。今川義元を討ちとった後、執拗なまでの追撃を行い、信長は怖いとの評判を作り出した。そして鉄砲の採用が信長の戦をますます苛烈にした。
「光秀さま、危険です。お下がりください」
いつの間にか前線に出ていたらしい。
「いや、行かせよ」
上様は、この光秀が攻めていると知ったころだろうか?後悔せぬ。信長に屈辱を与えないよう、生け捕りは命じていない。しかしこの手で信長が討てると思うと、喜びに震えた。おそらく人が人に憧れたり、敬ったりする心の奥底には、憎しみに近い感情が隠れている。それを実感した。
蘭丸
蘭丸は一層焦った。兵員が圧倒的に足りないのだ。防御は出来ても、反撃には出られない。
信忠様の軍が到着しないのは、妙覚寺も攻撃対象になっているからだろう。明智は緻密な頭脳の持ち主だ。抜かりは無いだろう。とすれば、頼りになるのは馬廻り衆五百人だが、家康のいる光明寺は、西南の方角、長岡にある。如何せん遠すぎる。
そこへ、高田竹虎が叫んだ。
「鉄砲の弾があと少ししかない」
蘭丸は御殿の入り口を指さして言った。
「この中に、まだ弾薬が山ほどある」
「そうなのか」
「ああ、上様にはすまないが、入口を破らせてもらう」
蘭丸は弥助を呼んだ。
「おぬしの鉞で、この戸を叩き壊してくれ」
分厚い戸を手で叩きながら言った。
疑問が湧いた。たとえ上様は熟睡していても、この物音に気が付かないなどということがあるだろうか?
再び光秀
一方、光秀も焦っていた。
信長のいる御殿になかなか近づけないまま、時間が流れる。
「やはり二百人を超える護衛がいたようです」
さすが蘭丸だ。
「しかも軒下に位置しているので、鉄砲が使用できます」
「こちらも本能寺の元々の本堂を抑えたのではないか?」
「上様のいる御殿の前に、もう一つ御堂の建築物があり、我らの射撃が遮断されています」
光秀は空を仰いだ。天はわしに味方しないのか。雨は止まないのか。
数人が突破できても、御殿の手前で討ち取られる。ここから見ても御殿の前は、死屍累々の有様だ。信長らしき男も、御殿の回廊で、槍で突き、弓を射たりしているようだ。
「それは影武者だ!」
光秀は叫んだ。
信長は危機を感じたならば、真っ先に逃げる人だ。金ヶ崎の戦のように、見栄も外聞も振り捨てて逃げる人だ。
既に空は明るくなってきた。京都の治安維持部隊も信長救援に駆けつけたらしい。もしここに精鋭の馬廻り衆が雪崩れ込んできたら・・・わが軍から、堪らず逃亡兵が出るかもしれない。わしはしくじったのか・・・。冷静さを失い、崩れそうな光秀は、自分を叱咤激励した。(続く)