魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その八)

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大江山絵巻』。酒呑童子に関する最古の典籍とされる。ウィキメディア・コモンズより。

光秀、老いの坂を下る。

老いの坂(京都と亀山城の中間地点)の峠を下った所で、光秀は青い光の渦を発見した。
「利三、あれを見よ」
「ホタルが湧き出たとこですな。こちらへ来ます」
利三は兵士たちに言った。
「行軍を停めるな。歩き続けよ」
ホタルの光の中、兵士たちは黙々と進軍を続けたが、小さな話し声が馬上の光秀に聞こえた。
「俺たち、もう死ぬな」
「何でそんな縁起の悪いことを言うのだ」
「見ろよ、ホタルが飛ぶ中を歩いている俺たちは、随分気味が悪いと思うぞ」
「ホタルが気味が悪いって生まれて初めてわかったよ」
「確か酒呑童子しゅてんどうじがいたという大江山はこの近くだったな」
「だから何だ」
「いや、俺は酒呑童子を退治に行く気分だ」
馬上の光秀は微笑み思った。この者たちは、酒呑童子ならぬ織田信長を討ちに行くと知ったら、びっくり仰天するだろう。そして、僅か六千人で上様を討てるのか?
妙覚寺の信忠の兵の数は五百人、信長の危機に駆けつけるべく配備されている馬廻り衆・歩兵の数凡そ四百ないし五百人。合わせて千人前後。千対六千の勝負になる見込みだ。勝利の可能性は五分五分。織田軍は強い。特に馬廻り衆は、何れも一騎当千だ。
沓掛村に到着したので、夜食を取らせることにした。時刻はもはや子の刻(深夜十二時)。
光秀は物頭や侍大将を集め、信長襲撃を打ち明ける事にした。

要塞化された本能寺中心部

「お蘭、疑心暗鬼ではないのか?」
寝室の中にも護衛を、と懇願する蘭丸に言った。
「お蘭、安心させてやる」
囲炉裏の周囲には畳が敷かれていたが、うしろは板敷の寝室である。中央に南蛮渡来の卓、その周囲に五脚の椅子、一番奥に信長の寝台が備え付けられている。壁側には連子窓が作られていた。
昨年の二月末の馬揃えの後、密かに本格的な改修工事をさせたのだ。
「でも、息苦しいのでは?」
「上を見よ」
信長は天井を指さした。
寺社によくある造りだが、天井の下に約三尺の隙間があった。そこにも、太い垂木が組み込まれ、連子窓が作られていた。
「これでは外から窓まで距離があるので、誰も忍び込めません。風も通ります」
「そうだ。角度にも気を配り、万が一、あの窓から矢が射られても、鉄砲を撃ち込まれても、床に立っている者には当たらないようになっている」
蘭丸は心底感心した。
信長は、更に得意そうに壁を叩いた。
「これは板壁に見えるが、下から六尺程は鉄板がはめ込まれている。床も鉄格子で囲まれている。瓦の下は、鉄板だ」
「そうでしたか」
「いざという時は、小姓達と半日籠もり、どんな攻撃にも耐えられる」
「半日あれば、信忠さまも馬廻り衆も駆け付けてまいりましょう。明智殿も・・・」
蘭丸は、初めて安心した。
「お蘭、家康は明日、光明寺でわしを待つ間に、謎の集団に襲われ、横死する。朝廷にも手は打ってある。羽柴のようなお調子者は信用などしておらぬ。わしはもう休む」
「はっ」
「お蘭もゆっくり休め」
蘭丸は信長の四面楚歌の状況を切なく思いながら下がった。
信長は自ら戸を閉め、内側からかんぬきを掛けた。
密室の出来上がりです。しかも合鍵はない。

天正十年六月二日朝

蘭丸は、夜通し信長の身辺警護をするつもりでいたが、いつの間にか寝入ってしまった。
東の空が明るくなったころ、気がついた。本能寺の外が騒がしい。
足軽衆が喧嘩でも始めたか。地響きもする。門番が慌てた様子で駆け込んできた。
「大勢の兵士が攻めてきました」
「何だと。徳川か?」
「いいえ、旗印は水色桔梗です」
明智・・・入れてやれ」
蘭丸は言った。
「攻めてきているのに、入れるのですか?」
門番は驚いて聞き返した。
「攻めてきているだと」
次の瞬間、門番の背に矢が突き刺さった。
蘭丸の脇の柱にも矢が二本突き刺さった。門の方からも、数十人の兵士が矢を射かけてくる。
「嘘だろう」
蘭丸は愕然とした。何が起こったのかわからなかった。
明智の襲撃だ。迎え撃て」
味方の絶叫を聞いて、蘭丸は我に返って叫んだ。
「鉄砲を並べろ!信忠さまの応援を頼め!」

光秀、突入。

梯子を使用した兵士によって、門扉が開けられた。門番たちは既に逃げていたらしく、突入は容易だった。
「光秀さま、この雨では鉄砲が使えません」
斎藤利三が言った。
火縄が濡れ、火は消えてしまう。不発は射手にとっては致命的だ。次の弾込めをしている間に敵が近ついてくるのだ。
「鉄砲は使わぬように言ってあるな」
「はい」
「裏門は開いたか?」
「開いたようです」
斎藤利三は、背伸びをして桔梗紋の旗印を見て言った。本能寺の詳しい絵図面は光秀の頭の中にある。侍大将たちも持っている。光秀は斎藤利三と兵と一緒に門の中へ入った。
「左手の奥だぞ」
光秀が叫んだ。
「わあ、わあ」
兵士たちが声を張り上げた。
光秀は、本能寺御殿を取り囲むまでは静かに行動したかった。兵士たちは恐怖心のせいか、威勢がいいのは声だけで、腰は引けていた。事実、兵士たちは情けない会話をしていた。
「ここには信長さまがいるのではないか?」
「じゃ、俺たち信長さまを討つのか?」
「どんな事になっても知らないぞ」
「でも、ここで逃げたら俺たちが殺される」
「目の前の敵を倒すだけだ」
無理もない。下剋上の世とはいえ、敵と味方が入れ替わる状況に納得がいかないのだろう。
光秀自身も奥へ進みながら、何時しか叫んでいた。
「上様、いや、織田殿の命運は尽きている。わしが取って代わるしかないのだ。進め、進め!」(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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