魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その七)

ゲンジボタルの群れの発光。山口県下関市にて。ウィキメディア・コモンズより。

島井宗室との密談

信長は御堂の囲炉裏に戻り、島井宗室と話を始めた。茶頭の長谷川宗仁もすでに帰った後で、今度は宗室が茶を点てた。宗室は信長のもう一つの茶室を見物し、待機していたのだった。

宗室は、袂から袱紗を信長の膝元まで押し出した。
「煎じる必要はありません。茶碗に少量入れて、湯を注ぐだけです」
そう言うと、宗室は自ら毒見でもするかのように、飲み干した。
「どれ、わしも」
信長も口に含んだ。
「む、口の中がサッパリするな」
「そうでございましょう。茶と違って、夜飲んでも眠れなくなることはありません」
「そうか。良い物をもらった」
そこから先は、声が低く小さくなったので、部屋の隅で控えていた蘭丸には聞き取れなかった。だが、二人の表情からすると重要な話らしい。
蘭丸は思った。それにしても、島井宗室はますます以て油断ならない奴だ。上様は眠る前に茶を飲むと眼が冴える質だと知っていたのだろうか。上様は、やはり茶の湯を好んでしているのではないな。
辛うじて聞き取れる言葉は、明軍・海賊などだった。
「島井、武器の手配も頼む」
「承知しました」
「それにしても、おおゆみというのはよい武器だ」
「そうでございましょう。唐土もろこしから来た武器です。上様がお使いになれば、広まりますよ」
「鉄砲もこのわしが使ったからこそ、広範囲に普及した」
「おっしゃる通りです」
宗室は頷き、言葉を続けた。
「上様は、魏の曹操を・・・」
信長の表情が途端に不機嫌になった。
「ですが、曹操を超えて・・・」
宗室がもう一度言った。
暫くすると、信長は機嫌を直した。
話が長いので、蘭丸は境内を一廻りするために、席を立った。
話がまるで解らない。魏の曹操と言えば三国志の英雄だが、それが上様とどの様な関係があるというのだろう。

蘭丸は、弥助や数人の小姓を連れて、見回りをした。
一本の梅の木の横の躑躅つつじの木の陰に男がかがんでいた。怯えたような顔をしている。
「そこにいるのは誰だ」
「あ、あっしは五郎作と言います」
「確かに寺男の五郎作です」
弥助が言った。
その時、台所の方から出てきた女中が蘭丸の背中越しに声をかけた。
「何よ、五郎作。また覗いてたの?」
「そうじゃなくて、採れたてのきゅうりと茄子をやろうかと思って」
実際、籠ににきゅうりと茄子が入っていた。
女中が言った。
「この人は大丈夫ですよ。もう二十年もここにいる、手先の器用な人ですよ」
疑うに足りない、小柄で風采の上がらない初老の男だ。蘭丸はそう判断した。次の瞬間、
「蘭丸、そっちに見たことのない女がいるぞ」
小姓の一人が叫んだ。
「何だと」
台所の中で、一生懸命皿洗いをしていた。しかし織田家の女中が言った。
「知らない女です」
密偵ではないかと思った蘭丸は声をかけた。
「何処から来た」
「何処から?・・・明智様の所からです」
明智殿?」
「信忠さまのご家来から、こちらに大勢の客が来て、人手が足りなくてお困りと聞いたので・・・もしかして、ご迷惑でしたか?」
女は不安げに尋ねた。
二条にある明智屋敷の女中が親切心から手伝いに来ていたのだ。間者ではない。
「いや、そんなことはない」
蘭丸は答えた。
「ああ、よかったです」
女は人のよさそうな笑みを見せた。
明智殿は今どこにおられるかな」
「わたしなどにはわかりませんが、坂本のお城では?」
「そうだな」
と返事をした蘭丸は思った。光秀は今、丹波攻略のために亀山城にいる筈だ。

光秀、亀山城を出立する。

出陣の支度を整え終わり、大手門にいた光秀に京からの使いがやって来た。
昨日までひたすら信長の身を案じていた自分の心変わりが信じられなかったが、後悔はしないと思った。
朝から二度目の使いは、光秀に跪いて言った。
「光秀さま、茶会が終わると、酒宴になりました」
「公家たちの機嫌はよかったか?」
「そのようです」
「その後は?」
「御殿に入り、島井宗室と茶の湯の席を」
「何、島井宗室。それはいかんな」
「それと碁打ちが対局を行う予定とか」
「よし」
信長は今晩本能寺に宿泊するだろう。何者かの暗殺が成功するか、それともこの光秀の軍が間に合うか。
「仕度、全て整いました」
侍大将の報告を受けた斎藤利三が言った。
馬上の光秀は、篝火に照らされた亀山城を見て、再び戻る日はあるのかと思った。
途中、野条(亀岡市篠町)で駆けつけた兵士らを含め、勢揃いを行なった。六千人が京を目指した。戌の刻(夜八時)になっていた。兵士達は、夜中の雨中の滑りやすい道の行軍に、だいぶ機嫌を悪くしていた。

再び御堂:碁の対局が始まる。

御堂では、二人が碁盤を前に向かい合っていた。本因坊算砂(日海)と林利玄である。
二人とも本能寺の年若い僧侶である。二人は速いペースで石を置いていく。
碁盤の半分程が黒白で埋まったころ、突如二人の指し手が止まった。
「これは三劫か」
盤面を見ていた信長が不思議そうに言った。
信長の様子にハラハラしていた蘭丸は、隣の高田竹虎に尋ねた。
「三劫とは何だ」
「劫とは、将棋の千日手のようなものだ」
「ああ」
「それが盤面に三つも出た」
離れているので盤面は見えない。
信長は唖然として言った。
「こんなことがあるのか」
「きわめて珍しいです」
「では終わるしかないか」
「はい」
日海が神妙に頷いた。
「面白いのう。わしも一人で今の棋譜を辿ってみよう」
二人が帰ると、信長は御堂に戻った。もう夜もだいぶ更けている。
信長の供をした蘭丸は、御堂の階段の手すりで、発光しているゲンジボタルを見つけた。
信長は平氏を自称しているので、蘭丸は少し気落ちした。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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