魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その六)

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京都市勧業館にあった法勝寺の復元模型。中央に見えるのは高さ約81メートルあったとされる八角九重塔。ウィキメディア・コモンズより。

スナイパーあらわる

蘭丸は御殿を出て回廊に立った。
「雨は止まないな」
信長が立っていた。事実、一層強く降っている。
桶狭間の時もこんな雨だった」
蘭丸は渡り廊下の真ん中で立ち止まった。
「上様、しゃがまれて」
咄嗟に信長に覆いかぶさった。
「お蘭、どうした」
「今火薬の臭いがしました」
蘭丸は叫んだ。
「出会え、曲者がいる。鉄砲を持っているぞ」
小姓が六、七人駆け寄ってきた。
「向こうだ」
蘭丸は、左手の森を示し、火薬の臭いを追った。信長は御堂(宴)に戻った。
「蘭丸」
小姓の高田竹虎が叫んだ。
「どうした」
「ほれ」
胸に短刀を刺した男が地面に倒れていた。
「竹虎が刺したのか」
「いや、逃がられぬと自分で」
傍に鉄砲が転がっている。雨で火縄の火は消えていた。
「この者はどうやって潜入したのだろう」
「解らぬ。門から怪しい者は入れないはずだが」
蘭丸は不安になった。この寺の僧侶たちは本当に味方なのか。
蘭丸は宴に戻った信長に報告した。
「鉄砲の射手?」
「はい。われらに見つかり、自害しました」
「ならば、よいではないか」
「上様、是非とも馬廻り衆をお呼び願います」
とうとう蘭丸は信長に懇願した。
「要らぬ!」
信長は怒鳴った。蘭丸の血相に気が付いた近衛前久が尋ねた。
「どうかなさいましたか」
「わしを鉄砲で狙った奴がいる」
「何と」
にもかかわらず、宴会は何事も無かったかのように続いた。

再び丹波亀山城

「やはり怪しい者が動き出したようですな」
斉藤利三は光秀の部屋に入るなり言った。
後ろには京から戻った家臣がいた(不眠不休で活動している)。蓑笠を着けてきただろうに、着物といわず髷といわず、ずぶ濡れだった。
「伊賀者らしき者やら、鉄砲を上様に向けた奴もいるとか」
斎藤利三が言った。
「伊賀者?」
「はい。全て蘭丸が討ち果たしたか、自害したそうです」
「いったい本能寺には門が無いのか」
光秀は腹ただしい気持ちになった。利三は使いを下がらせた。
「小姓達は、刺客はまだまだいると警戒しているそうです。一応、信忠さまの兵も廻してもらったとか」
「足りぬ。上様を殺したい奴らにしたら、千載一遇のチャンスだからな。この数日にどれくらいの刺客が上様を狙うことやら」
「ここ数日のうちに?」
「ああ。誰がしくじっても、家康殿はしくじらないだろう」
光秀は、五月十五日から十七日にかけて安土城を訪問していた徳川家康穴山梅雪の様子を思い出していた。
「家康殿は楽しそうでも、寛いだ様子でもなかった。上様に気を許してはいなかったようだ。上様はそんな家康殿の様子を見てとって、わしを叱責したのだろう。だが、家康殿も黙って討たれはしないだろう」
「はい、慎重なお方ですから」
実は斎藤利三は家康贔屓です。
「他には秀吉がいるが、今はわしが抑え込んでいる。あとは島井宗室と博多商人、堺衆か」
「連中は知恵が廻りますから怖いですな」
千利休は、家康の接待饗応を任されている。ひょっとしたら、奴らはつるんでいるかもしれぬ」
「何と」
「それに上様は宗教勢力の恨みも買っている。直ぐ頭に浮かぶだけでも、比叡山延暦寺本願寺。本能寺(日蓮宗)も同じことよ」
「本能寺」
斎藤利三は絶句した。
「上様は、しくじった。家康をおびき寄せようとして、自ら罠に嵌まった」
「何としたことか」
「上様の命運はここ数日で尽きる」
光秀はそう言うと、悲しみが湧いてきて、ひとしきり嗚咽を洩らした。薄くなった頭部を掻きむしった。
「いかが致しましょう。本能寺に駆けつけましょうか」
「そんなことをしたら、何しに来たと激怒される」
「でしょうな」
光秀の目が虚ろになり、眉間に皺をよせ、深く考え始めた。
どれ程の時間が流れたか、考え抜いた光秀が答えを出した。
「こうなったら、上様を最も慕うわしが上様を討つ資格がある。秀吉や家康に討たせてなるものか」
「殿、上様を討つ事は即ち天下を望む事ですぞ」
「解っておる」
「よくお考えをと申したいが、決断されたようですな」
「うむ。京に向かう仕度をせよ」
「解りました」
利三は物頭や侍たちを呼び集めた。
「戦ですか」
「いや、森蘭丸の使者が来た。上様がわが隊の陣容を検分したいとの仰せだ」
光秀は、いつもと同じ口調で兵や物頭、侍たちに言った。
時刻は申の刻(午後四時)になっていた。

再び本能寺:宴の終わり

御堂では年寄りの公家が能楽を披露していたが、大方の公家は居眠りをするか、お喋りに打ち興じていた。森蘭丸は気を揉んで、中腰になり、小さな声で信長に尋ねた。
「お公家さまたちの夕餉はいかが致しますか」
「奴らは察せとの言いたいのだ。馳走になるのが何より好きな奴らだ」
苦々しく言った後、言葉を続けた。
「蘭丸、夕餉は馳走しない。そこまでは付き合えない」
信長は、嬉しそうに酒の追加注文をしていた関白藤原内基に言った。
「関白どの。この信長、明日やらねばならぬことがございまして」
「あ、そうでしたな。これは楽しさの余り、つい長居いたしました。ではそろそろ」
その言葉が終わらないうちに、他の公家達も慌てて帰り仕度を始めた。

「まだ降っているのか」
近衛前久が御堂の出入り口で雨を眺めてうんざりして言った。
「帝に雨禁獄あめきんごくでもしていただこうか」
藤原内基が言った。
「雨禁獄とは?」
聞き慣れない言葉に信長が反応した。
「昔、白河院さまが法勝寺ほっしょうじ金泥こんでい一切経を供されようとした時、ひどい雨で三度延期されました。酷く腹を立てた白川院さまは、降る雨を器に入れて獄舎に閉じ込めたのです」
「あっはっは。洒落たことをなさいましたな」
「御所はそのような話ばかりですよ。何せ千年ですから」
「一年は短いが、千年は長い。しかも一人の人間には見ることのできない時間ときの量だ。だが、朝廷はその歳月を生き延びてきた。大したものよ」
信長はいつになくしみじみとした口調で言った。
「大したものでしょうか」
藤原内基が自嘲気味に笑った。
「武士の世になっても、帝の地位はずっと保たれてきた。その絶妙な世渡り術は、誰が授けたのか」
信長は思惟を表すように首を傾げた。
その思惟を断ち切るように近衛前久が尋ねた。
「信長どの、京にはいつまで?」
「用が済んだら出てゆく」
「明日は?」
徳川家康と茶を飲む」
公家達は酔いと疲労でふらふらになって帰っていった。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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