曲者
信長が長谷川宗仁に代わって茶を点て始めたとき、黒人小姓の弥助が蘭丸を呼んだ。
弥助は、信長が宣教師から貰い受けた身長百九十センチを超える大男で、相撲では無敵だ。剣の腕も最近目覚ましい上達ぶりを見せている。
「蘭丸どの、曲者らしき男が裏の庭に」
御堂の裏には約二千坪の庭がある。樫・杉・欅・椿などの木がのびのびと生い茂り、鬱蒼とした、昼でも暗い森を形成していた。寺では入用なのだろうが、警備には邪魔だと昨日思った地点だ。
「向こうからその辺りを怪しい人影が移動しました」
弥助が森の一角を指さして叫んだ。
「おそらく忍びだろう」
蘭丸は、木製の腕当てを自らの左手に結わえ付けて弥助と二人の小姓に言った。
「この森から逃げ出す者がいないか、気をつけてくれ」
蘭丸は抜刀して構え、一人で森の中に入っていった。紫陽花の花の下で一瞬何かが動く気配がした。凝視しながら近ついた時、刃が光った。蘭丸は、用心しながら言った。
「そこにいるのは誰だ。弥助、こっちに来てくれ」
「どうしました、蘭丸どの」
弥助は全力疾走した。
その時、蘭丸目がけて手裏剣が飛んだ。咄嗟に腕当てで手裏剣を受けた。
袴を着けて目立たない格好をした曲者は、紫陽花の茂みから飛び出すと蘭丸たちの前を横に走った。
「そっちだ、逃がすな。殺すな。生け捕りにしろ」
蘭丸は、曲者を取り囲むよう、小姓達に指示した。曲者は巨木や茂みを迂回しながら逃げてゆく。森の外を廻った小姓が曲者の行く手を遮った。
「くそっ」
曲者は蘭丸に切りかかった。蘭丸は切っ先をかわし、横一文字に薙ぎ払った。
曲者はあっと言う間に、弥助や小姓達に取り囲まれた。曲者は弥助の脇にいた小姓に突進した。
「うわっ」
小姓は、横殴りに剣を振るいながら脇に避けようとしたが、刃先が曲者の首を抉った。
「しまった」
これでは曲者の命は無い。
「蘭丸どの、すまぬ」
曲者を斬った小姓が詫びた。
「仕方がない」
おそらく曲者はわざと斬られたのだ。蘭丸は生け捕りにこだわった自分のせいだと思った。
「何処の刺客でしょう」
動かなくなった刺客の所持品を探ったが、身元の手がかりは当然皆無だった。
「これは上様を直接狙った者ではあるまい」
蘭丸は言った。
「間者ですね。ということは」
弥助は青ざめて蘭丸を見た。
蘭丸は、頷いて言った。
「この後、本当の刺客がやってくるだろう」
信長が僅か三十人で本能寺に入ったことは、既に彼等の諜報網に捕捉されているだろう。
この事態を確かめた彼等は、複数の刺客を使うだろう。刺客は既に動き始めているだろう。
蘭丸は御堂に戻った。速く信長に報告したいが、手足はもとより、顔も着物も血まみれ、泥まみれである。
急いで井戸端で、血を洗い流し、着物を変えた。茶会はまだ続いている。隣の部屋では公家達が愚にもつかない話をしているが、彼等の中の誰かが暗殺を命じた可能性がある。
信長と目が合った。
「どうした、お蘭」
蘭丸の血相が変わっているのに気が付いたらしい。信長は立ち上がって部屋の隅に来た。
「警護の人数を増やしていただけませんか」
「なぜだ」
「今裏庭に潜んでいた曲者を始末しました。遺憾ながら、幾人もの間諜が上様の動きを見張っていると思われます」
「それは、いつものことだ」
「しかし」
「これでよい」
「・・・」
「そなた、ゆうべも警護の人数を増やしたろう」
「は」
「もう充分だ」
「今回の入洛は秘密裏ではなかったので?」
「まあな」
「ですが、既に秘密ではありません」
「京は、間者だらけだ。わしの入洛に合わせたのか」
「あるいは、出立前から漏れていたのかもしれませぬ」
「かもしれぬ」
信長は頷いた。
ここで蘭丸は、信長がいつ少人数で入洛すると言い出したのか、記憶を呼び起こした。
確か五月十五日から十七日にかけて徳川家康が安土城に滞在した折り、家康は大坂・堺を見物して後入洛すると告げていた。
「よし、わしも京へ」
と信長が言った、あの時だった。
蘭丸には信長の真意がわからない。わざと死地を造り出すのか。自分が囮になって敵を誘き寄せるのか。上様は、いつも大事なことは一人で決定される。蘭丸は遣り切れない気持ちになった。上様は今回の入洛を誰に知らせたのだろうか。自分は知らされていなかった。明智光秀には知らせたのだろうか。そういえば、何故か今回の茶会に出席していない、信長の茶頭の千利休。大いに曲者との噂があるが、知っていても、態度には決して表さないだろう。
宴の始まり
やがて、島井宗室との茶会が終わり、公家達の居る部屋との襖を取り払って、宴会が始まった。
「さあ、宴にしよう」
信長の一言で開始された。(続く)