天正十年六月一日
朝から絹糸のような雨が降り続いていたが、小石を敷き詰めた本能寺の境内には水溜りは出来なかった。蘭丸は急いで朝食を済ませ、信長に朝の挨拶をするとすぐに警備の状況を見て回った。何か変わったことは起きていないか、目を皿のようにして見回りをした。
一回りして御殿前に来ると、小姓衆の高田竹虎が話しかけてきた。
「蘭丸、お主知っているか?月を跨いだ雨は騎月雨というのだ」
「騎月雨?」
「騎月雨は霖雨になりやすい」
「待て、わからんぞ。霖雨とは何だ?」
「長雨の事だ」
「それは鬱陶しいな」
蘭丸は、歌を詠み、漢書にも詳しい高田竹虎らしい話題だと思った。
誰よりも優れた武将になりたい自分には、知らなくてもよいことだ。人一倍梅雨が嫌いな蘭丸は思わず顔をしかめた。
自分は苛烈な夏と、峻厳な冬が好きなのだ。もうすぐ夏が来るが、今は上様をお守りすることが、最優先事項だ。先ず昼前には公家たちが、御堂にやってくる。主の信長が、公家達を丁重に扱っているので、自分も無礼なことはできない。鬱陶しい天気に鬱陶しい事が重なるものだ。
入り母屋造りの御堂といっても、仏壇があるわけではない。中は畳敷きの大広間があるだけだ。大広間は、派手な絵柄の襖によって四つに仕切られている。一部屋の広さが畳二十畳だ。
信長から、左半分の二部屋に襖を外して公家達に入ってもらえと指示されていた。
蘭丸は、御堂入口の縁に坐って階段を上がってくる公家達を待ち受けた。
公家達はぞろぞろとやって来た。白絹に油を引いた雨衣を頭から被り、高下駄で砂利の上を歩きにくそうにヨロヨロと歩く。牛車は警備のために本能寺の門前で降りて貰ったのだ。
彼等は帝の傍に存在する殿上人だが、蘭丸の目には怪しい術を使いながら、千年も京都の真ん中から動かない、油断できない物の怪の集団と映った。
「むふ」
咳払いが聞こえた。
薄緑の雨衣の下から小柄な女のような人物が現れた。白粉を塗り、頬紅を刷いている。
見覚えがある。関白藤原内基である。
「関白さま」
蘭丸は、上り口に膝をついて、深々と礼をした。
「お、そちは確か蘭丸と申したな」
「お上がりになられて、左手に」
「承知した」
関白が通り過ぎた後、嗅いだことのない化粧の匂いがした。おそらくは南蛮渡来の香だろう。
次に堂々たる体躯の男がやって来た。前関白近衛前久だ。白粉を塗っている。
「近衛さま、雨の中をわざわざ」
「ん」
近衛は無駄口をたたかない男だ。確か徳川家康とも繋がっているはずだ。その他に二条昭実、聖護院道澄、鷹司信房、今出川晴季、徳大寺公維等がやってきた。凡そ四十人。
何れも、信長と浅からぬ因縁をもつ、錚々たる人物ばかりである。
御堂の入り口は、雨衣や雨掛、蓑傘などを脱いだり払ったりするので、ひとしきり賑やかになった。
蘭丸は、思い巡らせた。
それにしても、朝廷の大物たちがこの雨の中、ご機嫌伺いに来るのは何故だろう。前例はあるのだろうか。
主・信長は今上帝(正親町帝)に譲位を迫っている。蘭丸もその場に同席していた。
「実は、帝にご退位願おうと思っている」
素っ気なく、いきなり言った。
「それは、直ぐに返事するわけにはいかぬ」
正親町帝は驚いて、小さな声で答えるのがやっとだった。
上様が何を考え、譲位を迫っているのかわからないが、屈服させられた形の朝廷から恨まれているだろう。朝廷には軍を組織する金もないはずだ。力攻めをすれば、御所の防御など造作もないのに、上様は何を考えておられるのだろう。上様は、朝廷を潰したいのか、乗っ取りたいのか?この先、何をされるのか、堪らなく不安だ。
公家達が一通り揃ったので、蘭丸は御殿へ行き、襖の外から声をかけた。
「上様、御所からのお客は皆揃われました」
「もう揃ったのか」
「はい、ご挨拶なさいますか」
「こうも早く来られては仕方がないな。長雨で退屈でもしているのか」
信長は大きなあくびをしながら、せせら笑うように言った。立ち上がり、部屋から出て、歩き始めた。信長は公家達の待つ部屋の襖を開けた。黄金に塗られた虎が、二頭左右に走った。
それまで、おしゃべりに興じていた公家達は、水を打ったように静まり返った。
皆一様に強張った顔をして信長の顔を見つめた。顔色を窺っているのだ。
本日の信長公のご機嫌は如何に・・・。
信長は上座にドスンと腰を下ろし、笑みを浮かべて挨拶した。
「本日は、わざわざ痛みいります」(続く)