魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その十三)

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宗像神社(京都府京都市上京区京都御苑内)にある「花山院邸跡」の石碑。ウィキメディア・コモンズより。

近衛前久と花山院高雅の弁明

愕然としている光秀に斎藤利三が言った。
「これで下手人はわかりましたな」
「本能寺は焼いてしまおう」
御堂の窓から本堂を見ながら、光秀は言った。
広大な本能寺は、幾つもの堂宇があり、焼け落ちたのは信長が改修工事をさせた部分だけだった。多数の堂宇は、荘厳な佇まいを保ったまま、健在だった。
「だがその前に怪しい者たちを呼び出そう」
「誰を?」
近衛前久だ。あと島井宗室も呼んでくれ」
「はっ」
家臣たちは、すぐ御所近くの近衛邸と、島井宗室の宿泊所(茶問屋)に走った。
間もなく近衛前久と若い花山院高雅がやって来た。どうやら近衛は呼ばれることを予期していたらしい。
「信長殿は死んだ」
開口一番、光秀は言った。
「ああ」
近衛の目は、安堵と控えめな歓喜の色を浮かべた。
「朝廷は信長を恨んでいた。相違ござらんな」
「そうじゃ。明智殿もあの馬揃えの儀式には、内心眉をひそめたであろう。信長の後に、朝廷の軍を進ませた。見物人は、誰しも帝までが信長に従ったと思うたろう」
「・・・」
「信長は、当初朝廷を潰すつもりだった。帝を弑逆して自分が新しい王に成り代わるつもりだった」
近衛は悔しそうな表情を露わにして言った。
近衛の気持ちもわからないではないが、光秀は意識して冷たい口調で言った。
「前例がある。蘇我馬子崇峻天皇を弑逆した。安徳天皇も源家に追われて入水した。信長殿が・・・」
光秀はそこで奇妙に思ったので言葉を止めた。
はて、信長が蘇我馬子源頼朝を尊敬していたとは、聞いたことがなかった。
そんな光秀を近衛は怪訝に見ていたが、言った。
「信長は、ある思惑を以て帝に譲位を迫った」
「ある思惑?」
「とぼけるな。自分の娘、茶々を使って帝か、皇太子の義父になる算段をした」
やはり、知られていたか。
安土城の中には、わざわざ同じ作りの部屋があったというではないか。わざと帝を不愉快にさせた。薄気味悪い男だった」
近衛は顔をしかめて言った。
「どんな風に?」
光秀は思った。近衛の目には信長がどのような男に映っていたのか。
「神の末裔と、普通の人間とどう違うのか、じっくりと見たい。ついては、丸一日帝を傍で眺めさせてくれ。食事中も、就寝中も、入浴中も、庭を散歩するときも」
「ははあ」
あまつさえ、信長はこうも言った。帝の家に生まれたというだけで、当たり前のように御所に鎮座する図々しさは何なのだ」
「そこまで言いましたか」
「好奇心であっても不敬であろう」
「だから、殺したのですか?」
「帝を守るためだ」
昂然と胸を張って、近衛が言った。
「わたしも、お手伝いしました」
花山院高雅が静かに言った。
「いったい、どうやって?」
「信長殿は、ここ数年、夜中に咳をするようになった。其の為、眠る前に白湯を一杯飲む習慣ができた」
「そこで我らは、上の窓から湯を沸かす釜に毒を入れればよいと考えた」
「やはり、上の窓から何かをしようとした・・・」
「部屋の中の様子は、宴会の途中、酔った振りをして、茶釜の置き位置などを確かめておきました」
花山院高雅が言った。
「毒をどのように仕込んだ?」
「途中から曲がった釣り竿のようなものを拵えて、先に毒を入れた小さなざるを付けたのです。この笊は糸で手前の方まで結んでいて、糸を引けばひっくり返って毒がこぼれる。簡単な仕掛けです」
「何と」
「その仕掛けは、まだこの建物の裏の縁の下に置いてあります」
高田竹虎が素早く、仕掛けを持ってきた。
「やってみせよ」
光秀が命令した。
花山院は回廊のところに、梯子を架けた。
「この連子窓から、こうやって竿を入れまして」
竿がゆっくりと伸びて、やがて茶室の切ってある囲炉裏まで届いた。
「湯が滾る音が聞こえた頃、糸を引けば」
花山院が紐を引くと、笊が傾いた。
ハラハラと粉が舞い落ちた。
「いくら粉でも、上から降ってくれば、信長殿は気がつくだろう」
「粉を撒く寸前、わたしは反対側の壁にどんぐりを放ちました。信長殿がそっちに動くのが判りました」
「そういえば、女中が廊下で粉を見かけたと言っていたらしい」
「笊を引き揚げるときこぼしたのかも知れない。それから後、七転八倒する物音が聞こえました」
天下人信長に相応しい最期ではない。光秀は思った。
「それから、誰かの名前を呼びました」
「誰の名を?」
「わかりません。わたしは成功したと思い、梯子を持って逃げる所でした」
「この度のことは、帝もご存じか?」
「この近衛前久の一存」
「それとわたしと」
花山院高雅が言った。
「だが信長が死んだと聞けばさぞお喜びに・・・信長は図にのりすぎた。天皇家を簒奪しようなどとは、思い上がりも甚だしい。天罰覿面だ。おっほっほ」
近衛は甲高い声で笑った。その露骨な喜びようは、光秀を憤慨させた。
若し、信長が本当に近衛前久に毒殺されたのであれば、さぞ無念だったろう。
「追って沙汰する。あちらに控えておれ」(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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