魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その十二)

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現在の本能寺(京都府京都市中京区下本能寺前町)に立つ創建者・日隆聖人の像。なお現在の本能寺には日承上人の墓もあり、皇族なので宮内庁の管轄となっているとのこと。ウィキメディア・コモンズより。

住職・日承(にちじょう)上人の供述

やがて、六十歳を過ぎたころの日承上人が光秀の面前にやって来た。
「上人さま、お疲れでございましょう」
光秀はねぎらった。
「ご謀反ですな。思い切ったことをなさいましたな」
日承上人はぬけぬけと言った。
「早速だが、ここは僧兵が居る筈なのに、何故誰一人として我々に抵抗しなかったのか?」
「そこは、比叡山本願寺とは違って、当寺の僧兵は腰抜けばかりで」
「妙だな。本能寺は種子島で布教をしている関係で、鉄砲の名人もいると聞いたが」
答えに詰まった日承上人は俯いた。光秀はここを先途と問い詰めた。
「そもそも、本能寺は天魔の信長殿の宿泊所になることを喜んだのか?」
「喜ぶ道理はありませんが、断れるわけもありません。案の定、このようなことに」
「そうであれば、面倒を起こす前に、信長殿に死んでほしいと願うであろうな」
「滅相もない。僧侶がそのようなことを」
「上人、さぞ悩んだな。信長殿がこの世から消えてくれる方法がないものかと」
光秀は、やさしい声で言った。
日承はしばらく、天の一点を見つめていたが、一呼吸置いて言った。
「我らは最前より、南洋の島の武器を献上しておりました。種子島で入手した三日月鎌を献上せず、使いました」
光秀は、信長が茶道具だけでなく、新しい武器の収集にも執念を燃やしていた事を思い出した。それらは今、この御殿の壁に並べられている。
「その三日月鎌を持ってきて、この御堂で実演せよ。御殿とは同じ造りだ」
「はっ」
若い坊主が持ってきた。
「これか。まさに暗殺仕様だな。竹虎、昨夜見た光はこれであったか?」
「これでしょう」
竹虎が答えた。
若い坊主は、西側の回廊へ廻り、梯子をかけ、連子窓に顔をつけ、中を窺うようにしながら、三日月鎌をゆっくりと差し入れた。手を傷つけないよう峰の方を持ち、ゆっくりと。
「こう致しました」
刃が寝台のあったあたりを、何度か生き物のように動いた。
「手応えはあったのか?血がついておらぬ」
「この鎌は鋭すぎて、手応えというものが判らないのです。まして柔らかい人の身体では。雨の中を持ち帰ったので、血の跡はありません」
光秀は衝撃を受け、愕然と立ち尽くした。寝台にいた信長の首や胸が切り裂かれ、血が噴き出すさまを思い浮かべた。
「もうよい、下がれ。日承上人は残れ」
命令するのがやっとだった。

日承上人との問答

「南無妙法蓮華経
残された日承上人は、手を合わせ、経文を唱えた。
「殺しておいて、手を合わせるのか。勝手なことよ」
思わず光秀はなじった。
「どんな方でも、死んだら仏さまです」
「御託は必要ないから、上人は信長殿をどう思っていたのか、忌憚きたんなく言え」
「恐ろしい方、心の奥に虚無を飼っていた方でした」
「虚無?」
「信長さまは前回宿泊された時に、わたしに仰いました。経典や仏典が、全て嘘に嘘を重ねたものだったら、信じている民にどう詫びるのだと」
「ほう?」
「宣教師から聞いたデウスの教えは、仏の教えとは全くの別物だった。ということは、どちらかが嘘をついているのか、双方とも法螺を吹いているかだろうと」
「なるほど」
「信長さまは、二つを比べて、どちらも嘘だと判断されたようで。あの方は、この世をべるものへの敬虔な気持ち、祈りをささげる気持ちが無い。わたしは、ぼんやりしている信長さまの目を間近に見たことがございます。何も映さない伽藍堂がらんどうの目をしていました・・・あの方の激しい怒り、執念の裏には、深い虚無が隠されていました。あのような虚無を持った方が、天下人になってはいけません。虚無を中心とした世の中は荒廃します」
光秀は日承上人の目を見ていた。
言葉を返すつもりはなかったが、信長の虚無はわかる気がした。
だが、信長に希望はなかったのだろうか。
振り切るように光秀は言った。
「追って沙汰致す。控えておれ」(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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