魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その十)

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薙刀なぎなたを振るって戦う巴御前。楊洲周延ちかのぶによる木版画ウィキメディア・コモンズより。

御殿の有様

弥助がまさかりを二十回ほど振り降ろした頃か、三寸くらい扉が削られ、かんぬきが見えた。手槍の穂先を使って、閂を横に滑らせた。
「開いた!」
蘭丸は先頭に立って廊下に入り、そこから先にある奥の戸を開けた。
床に男が倒れていた。蘭丸は反射的に寝台を見たが、そこに信長はいない。
「ああ・・・」
刀を手にしたまま、おそろしい形相で天を睨んだ信長が倒れていた。
「上様」
蘭丸は信長を抱き起そうとしたが、冷たく硬くなっていた。
蘭丸は悲鳴をあげた。
「兄者、どうしました」
「どうしました」
坊丸と弥助が飛び込んできた。
「上様がお亡くなりに」
続いて薙刀なぎなたを持ち、襷掛たすきがけをした女人たちも入って来た。
「どうなさったので?」
弥助が答えた。
「上様がお亡くなりです」
「そんな馬鹿な。ご自害ですか?」
女人たちは口々に甲高い声で叫び、騒ぎ出した。
「うるさい。騒ぐな!」
女人たちを怒鳴りつけた蘭丸は、落ち着きを取り戻して言った。
「とにかく、上様を明智勢に見せては駄目だ」
首を獲られるなどあってはならない。
「ではどうする?」
坊丸が尋ねた。
明智勢はすぐそこに迫っている。蟻の這い出る隙間もないように取り囲まれている。
「火を放つ。御殿を焼き尽くすのだ」
「よし、 わかった」
坊丸は、女中たちに台所から油を持ってこさせた。御殿の床、信長の遺骸に万遍なくかけた。御殿の中に鉄砲のための火薬が相当量あったので、これらも床に撒いた。火を点けた。地獄の業火もかくやの事態となった。

本能寺炎上

「火が出たぞ。どうしたのだ」
光秀は自分の前に立ちはだかる斎藤利三に聞いた。
「わかりません。間もなく鎮圧しますので」
事実御殿の前で、必死に抵抗している者達も二十人位だろうと思った。
「上様に逃げられてはいないだろうな」
光秀は苛立ちを隠せないまま言った。
「この包囲からは誰も逃げられません」
斎藤利三は冷静な口調で言った。
だが、光秀は思った。上様ならいかなる危機も切り抜けるだろう。以前信長が言った言葉を思い出した。
「戦に負けるのは仕方がないが、首を獲られるのだけは我慢ができない」
この火は、信長が自らを焼き尽くす為の火ではないのか?
その時、御殿の屋根のどこかから、何かがボンと音を立ててはじけた。火の粉が渦巻いている。
「火を消せ、消せ!」
光秀は叫ぶが何もできない。激しくなってきた雨の勢いも、火の勢いの前には何ほどでもない。
火はやがて黒煙になった。雨にいぶされた。明智勢もせた。黒煙が上がる度に火の勢いは強くなった。
御殿の周囲では、男女を問わず誰も逃げず、最後の戦いを繰り広げていた。彼らは鉄砲の弾薬を入れ替える。弾薬が少なくなると、御堂から畳を運び、御殿の回廊の前に並べる作業を行なっていた。蘭丸が叫んだ。
「まだ近づけるな。上様の遺骸が全て焼き尽くされるまで」
蘭丸は思った。自分は寝苦しい夜に見る悪夢の中にいるのではないのか。その時、隣にいる坊丸の胸に矢が突き刺さった。
「兄者は生きて、上様の仇を討ってください」
坊丸が胸の矢を抜き、息の下で言った。
仇を討っても、この悲しさ、虚しさは消えないだろう。
それなら、ここにいた方がいい。
「嫌だ。わたしもここで死ぬ」
坊丸が倒れた。
同時に蘭丸の胸にも矢が突き刺さった。
「わあ」
吶喊とっかんの声と共に、明智勢が押し寄せてくるのが見えた。

光秀の尋問

「敵軍全滅!」
光秀は思わず御殿の前に走った。兵士に言った。
勝鬨かちどきよりも消火せよ。信長殿の遺骸をたしかめよ」
「まだ危ないです」
斎藤利三が光秀に駆け寄り、身体を押した。
すぐ脇の黒焦げになった柱が崩れ落ちてきた。地面に激突して折れると、赤い炎を吐いた。
「信長殿の遺骸は見つかったか?」
「まだです」
「五十ぐらいの細身の男を探し出せ」
「この者は?」
御殿の前で頭の一部が銃弾で吹き飛ばされた、白い着物の男を指さした。
「これは違う。影武者だ」
弓矢や槍の戦のころにはなかった遺骸だ。光秀は自分が信長を見間違う訳がないと思った。
「では、この中です。逃げた者はおりません」
火の勢いが強く、とても近づけない。弾けるような音もする。
「誰か見ていないのか?生き残った者に聞け」
胸のあたりが血に染まった、槍傷を負った小姓が光秀の前に引き出された。
「信長殿は?自害されたのか?」
「いえ、どうも御殿の中に居た時に誰かに殺されたとか」
「いつ、誰に殺されたというのだ?」
「わかりません。御殿には誰も入れません。上様はいつも一人で就寝されますので」
「何だと・・・手当してやれ」
小姓が倒れた。おそらく助からないだろう。
「光秀さま、最後までここにいた女を連れてきました」
女が引き出された。
「手荒に扱うな」
女の着物と髪が真っ黒に汚れ、奮戦の有様を物語っていた。
明智様、これは一体何のおつもりですか」
女は食いつく様に光秀を睨みつけた。
女子おなごにはわからぬこと。それより、信長殿はどこだ?」
「上様はお亡くなりです」
「そなた、ご遺体を見たのか?」
「ちらりと」
「それは間違いなく信長殿だったのだな?」
「間違いありません。お顔に悔しさが浮かんでおりました」
「どんな風に亡くなったのだ。斬られたのか、鉄砲で撃たれたのか?」
「それは、わかりません。御殿の中に籠もられたまま、亡くなられたようです」
「詳しく申せ」
明智様の謀反をお知らせするために、弥助がまさかりで無理やり扉をこわして、開けました。開けてみたら、上様は既に亡くなられて」
「では誰か一緒に入った者の仕業か?」
「いいえ、上様は一人で就寝されます」
「では、やったのは刺客であろう?」
明智様、この期に及んで何をとぼけておられます?」
「とぼける?」
「大方、明智様が雇った刺客でございましょう。大それたことをなさいましたな」
女は胸を張り、光秀を睨みつけて、天罰でも下そうとする態度だった。
「よい、追って沙汰いたす。連れていけ」
女の思い込みの強さにあきれながら命じた。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

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