魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

「歌う老将・源頼政」編(武内涼『源氏の白旗 落人たちの戦』より)

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菱川師宣による木版画で、左からあやめ御前、近衛天皇、若き日の源頼政ウィキメディア・コモンズより。

以下は一天一笑さんによる武内涼『源氏の白旗 落人たちの戦』(実業之日本社)の紹介記事の続編となります。前回の記事はこちら


 

源頼政はなぜ以仁王を奉じて挙兵したか?

保元・平治の乱を生き抜いた武将・歌人・公卿の面を持つ源頼政は、何を思い、挙兵したのか?
源頼光の玄孫として、若い頃には近衛天皇の要請で、ぬえを退治した武勇伝を持つ頼政には、挙兵するには準備不足であることは理解していたが、挙兵せざるを得ない状況があったのか?
誇り高き摂津源氏の棟梁としては、21年前、平清盛源義朝が激突した戦の時、自分たちが生き残る為に義朝を見限り、平清盛と協力関係を築くしかなかった。頼政は苦渋の選択をしたわけだが、その選択後には平家の専横、貴族化した平家の公達きんだちに嗤い者にされても忍従するしかない境遇が待っていた。
「我ら一門と義朝ごときを天秤にかけたあげく、相国入道様のお情けに縋って生き延びた、武士の心を持たぬ武士よ」
頼政は、平家専横の世を生きる方便として、歌の道、「数寄」の道に、一心不乱に打ち込んだ。
武士をやめて、歌詠みの公家になりたいのではないかと噂の立つ程に。
平清盛頼政に目をかけてくれても、長子の重盛が厚遇してくれても、口さがない者は何処にでもいるのである。頼政は、源氏の長老として、多くの養子を迎えた。
例えば、木曾冠者きそかんじゃ義仲の兄・源仲家、横死した弟・源頼行よりゆきの息子たち(源宗頼源政綱源兼綱)である。
彼らのうち、仲家は養父と運命を共にしたが、生き残った者は頼朝の挙兵に参加する運命の巡り合わせとなる。
幾人かの娘の中には、宮中歌人として名を馳せ、女房三十六歌仙にも選ばれた二条院讃岐がいる。

挙兵への導火線

1179年、平重盛が病没する。跡目は宗盛が継ぐ。この宗盛については、一説には与えられるのが当たり前の典型的な御曹司の上に、狭量で自儘じままな人物との評判もある。
平宗盛源頼政の息子・仲綱の間で仲綱の愛馬「した」の貸借を巡って、尋常ならざる事件が起きた。
宗盛の人となりを知る仲綱は愛馬を貸し渋ったたが、それを恨みに思った宗盛は「木の下」に過酷な仕打ちをした。まさに外道の行為だ。
この事件を契機に頼政は、歌人の仮面を取り、武将に戻る決心をした。
表向き、和歌の稽古として後白河法皇の第三皇子・以仁王の御所(高倉宮)に通っていた頼政は言う。
「宮様、平家の奢り、極まった感がござる」
「その言葉を待っていた。よしなにたのむ、頼政
蟷螂とうろうの斧かもしれぬが、ふるってみたくなりました」
こうして、以仁王の“令旨りょうじ”は発せられた。紀州・熊野から源義盛(=新宮しんぐう行家、源義朝の弟)を秘密裏に呼び寄せ、平家打倒の令旨を渡し、諸国の源氏に触れ廻らせた。

令旨の始末

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市女笠姿で観光パンフレットを配布する女性たち。広島県廿日市市宮島町。ウィキメディア・コモンズより。

しかしながら、諸国の源氏の返事は玉虫色であった。
思慮深い頼朝は、令旨の旨を知るが、行家が痺れを切らすほどに瞑目し、一言も発しなかった。
「どうした。何故黙っておる」
静かに目を開けた頼朝は言った。
「お味方致します」
唯一、即答で応じたのが、木曾冠者義仲・今井兼平主従だった。

口の軽い新宮行家から熊野別当ごんべっとう湛増たんぞうを通じて、福原の平清盛に“以仁王謀反”が露見した。
怒る清盛は、源兼綱源光長を呼び、命令した。
以仁王を捕えて、土佐へ流罪にしろ」
源兼綱は、養父・源頼政の共謀はまだ露見していないと判断し、即刻知らせた。
報せを受けた頼政は、以仁王に密使を送った。更に指令を出した。
「仲綱。明日屋敷を焼き払い、都を退散する。仕度せよ」
郎党に言った。
三井寺に使いを出し、宮様が入られる旨伝えよ」
三井寺後白河法皇と昵懇で、反平家の僧が多数いる。
頼政からの報せを受けた以仁王は、長谷部信連の進言により、市女笠いちめがさを被り、女装して御所を脱出する。残った長谷部信連は、薄青の狩衣の下に萌黄縅の鎧を着用して、騎乗の出羽判官・源長光主従に気迫を込めて立ち向かった。
結果、捕えられた長谷部信連は、平清盛の裁断により、伯州に流罪となった(平清盛は武人の心意気が理解できる人物です)。

蹶起

5月16日夜。
「父上、準備整いました」
「うむ」
屋敷には篝火が焚かれ、一族郎党100人が勢ぞろいした。皆大鎧・胴丸・腹巻を着用し、薙刀・弓・太刀を手にしている。戦支度をしている。家来の女人は昨夜のうちに逃がしてある。張り詰めた空気の中で、頼政の葦毛、仲綱の紅栗毛が曳かれてきた。
仲綱が言った。
「これは、今は亡き重盛殿から頂戴した駿馬です。私は平家に恩があります。父上、重盛殿が健在ならば平家に弓を引くことはなかった」
羊歯革縅しだがわおどしの大鎧を着た頼政が言った。
「もうよい。宗盛を跡継ぎにした今、平家の命運は尽きたのだ。我ら摂津源氏の誇りを踏みにじった。これ以上、平家に隷従はせぬ」
皆歯を食いしばって頷いた。
更に頼政は言った。
「武士の棟梁の器とは、素性も立場を違う多くの侍を、有無を言わさず惹きつけ、誰よりも遠くを見渡す知恵を有する器だ。宗盛は両方とも持っていない。畢竟、天下が乱れる。我らが火の手を上げ、摂津源氏の武名を歴史に轟かそうではないか。東国には我らと志を同じくする武士がいる」
頼政が葦毛に、仲綱が紅栗毛に騎乗する。
「いざ、参ろう」
雑兵が、松明で襖や障子に火をつけた。
摂津源氏譜代の渡辺党の渡辺省・唱・授・続・清なども同行した。
彼らは源頼光の四天王の一人、渡辺綱の子孫で、何れも一騎当千強者つわものぞろいだ。

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復元された弥生時代の逆茂木。吉野ヶ里歴史公園佐賀県吉野ヶ里町および神埼市)。ウィキメディア・コモンズより。

頼政一党は、ひたすら東へ進んだ。大津市の西北にある三井寺(正式な名前は園城寺おんじょうじ)から反乱軍受け入れの返事が来ている。俄か本陣が三井寺内・法輪院に造られた。
僧兵と協力して、逆茂木に柵、空堀で要塞化した。以仁王には休憩してもらった。
頼政は軍議を開き、蹶起の計画が漏れた綻びを、どう取り繕うか討議した。
三井寺に立てこもり、可能かどうかはともかく、同じ天台宗比叡山延暦寺と奈良興福寺に援兵(加勢)を請うことに決着した。
そうして、比叡山延暦寺と奈良興福寺に急使が遣わされた.
返事を待つ間にも三井寺の高僧たちも加わり、軍議を重ねた。
諸国の源氏も、我らが本当に恃むに足りるか軍勢であるかを様子見しているのではないかと考えた頼政は、兵を二手に分けて奇襲(夜討ち)を掛け、勝機を見出すべきだと主張した。
僧兵たちは、慎重論を述べた。頼政の奇襲に決まりかけた時、清盛の祈祷僧を務めていた阿闍梨真海が殊更ゆっくりと口を開いた。
「すぐ攻めてくるとも思われぬ」
そこから長広舌を始め、無意味な論争を頼政に吹っ掛けた。
見かねた乗円坊慶秀が仲裁に入り、頼政の奇襲作戦が採用されたが、夏の夜は短い。
夜明けまでに、奇襲の仕度ができるかが勝負だ。
仲綱率いる潜行部隊が出発し、同時に松明を灯した搦手部隊(おとり)が出発した頃には、山の鳥たちが目を覚ました。
結果は、奈良興福寺のみが急ぎ兵を集め三井寺に送る故、もう少し粘ってくれの返事だった。

夜討ちの失敗・三井寺内の意見不統一など、行き詰まりの頼政は山犬のような険しい面持ちで決心する。このままでは、宮様も危ない。座して死を待つよりは、奈良まで駆けて、戦を仕切りなおそう。宇治平等院に入った後、橋を切って落とせば時間が稼げる。
宇治は奈良と京都の中間に位置する。
反乱軍は、街道を南に落ちてゆく。騎乗の経験のない以仁王も自ら志願して騎乗の人となった(途中何度か落馬する)。

源平合戦の火蓋を切ったと言われる宇治合戦の行方は?「蟷螂の斧」であっても、長い忍従の果て、旗幟を鮮明にして、自らの信念に従い戦う77歳の老武者・源頼政と渡辺党の活躍をお楽しみください。一天一