ボードレールの「レスボス」について
ボードレールは女子同性愛をもっぱら審美的観点から、純粋に美しいイメージとして、詩の世界に取り込もうとした最初の人で、のちにヴェルレーヌの詩集『女友達』からピエール・ルイスの詩集『ビリチスの歌』へと受け継がれてゆく一つの流れを産み出しました。
さて、ボードレールの詩集『悪の華』の中の「レスボス」というタイトルの詩、この中で歌われているレスボス島のイメージですが、これは徹頭徹尾、男性の妄想で作り上げられた世界であると言えよう。
レスボスの島、フリーネのやうな美女と美女とが、互に恋して、
その溜息は 一つとして谺を響かせないものは無く、
神の都パフォスと等しく 天の星が島を讃へて、
美女神さへ 同性愛のサフォーをまさに嫉妬する、
レスボスの島、フリーネのやうな美女と美女とが、互に恋して、
(第三節、鈴木信太郎訳)
ここまで妄想を暴走させられると、かえってすがすがしいものさえ感じますね。
シグナスさんによると、プラトンはサッフォーのことを「十番目のムーサ」と讃えているそうですが、ボードレールはあたかもプラトンがサッフォーを非難したかのように書いている。
しかし同性愛者のプラトンが、サッフォーの同性愛を非難するというのは、何となく筋が通らないような気もしますが。
オウィディウスの詩に出てくるサッフォーが容貌に難点があったという話は前にしました。しかしボードレールはサッフォーが「ヴィーナスよりも美しかった」と力説する。
恋をして詩を書く女、男性のやうなサフォーよ、
その陰鬱な蒼白さは 美女神よりも美しい。
碧瑠璃の美女神の眼も 苦悩により薄墨色の
隈取りが斑をつけた真黒な眼に 及ばない、
恋をして詩を書く女、男性のやうなサフォーよ。
(第十二節、鈴木信太郎訳)
ちなみにサッフォーの投身自殺(の伝説)に関するボードレール流の解釈はこうです。
その冒涜の日に死んだサフォーよ、
儀典と 創始した礼拝を 自ら破って、
その美しい肉体を 獣のやうな人間の
至上の贄とした時に、獣人の傲慢は不信を罰して、
その冒涜の日に死んだサフォーよ。
(第十四節、鈴木信太郎訳)
最後に、この詩も裁判所から削除を命じられた「禁断詩篇」のうちの一つですが、全体として大変格調高い詩で、腑に落ちない気もしますが、私はやはり以下の一節がやばかったのではないかと思います。
レスボスの島、夜な夜な恋に悩ましく蒸し暑い国、
眼のふちの窪んだ少女が 鏡に向かひ、実を結ばぬ
肉欲よ、われとわが身を恋慕して、一人前の
女と熟れた肉体の果実を 手づから愛撫する、
レスボスの島、夜な夜な恋に悩ましく蒸し暑い国、
(第四節、鈴木信太郎訳)
「レスボス(Lesbos)」*1
ギリシャの恋のよろこびと ローマの愛の戯れの
母なる島よ レスボスよ 切ないキスや甘いキス
メロンのようにひんやりと 日ざしのようにじりじりと
多彩なキスが 陸離たる昼と夜とを美飾する
ギリシャの恋のよろこびと ローマの愛の戯れの
レスボス そこで生まれた口づけは 滝のようです
綺麗なキスは ことごとく まっさかさまに身を投げて
奈落の底を駆けながら 痙攣的に泣き笑う
狂おしい秘密のキスが 底知れずひしめいている
レスボス そこで生まれた口づけは 滝のようです
レスボス それは美人*2と美人とが 求め合う島
そこでは誰の吐息にも 応えない吐息とてなく*3
星たちが パフォスと比較するゆえに パフォス生まれの
ヴィーナスまでが サッフォーに嫉妬するのも無理はない
レスボス それは美人と美人とが 求め合う島
レスボス それは暑くて寝苦しい夜な夜なの島
目に隈のある少女らが 鏡だけが見ている前で
実を結ばない快楽よ われとわが身に恋をして
露わになったみずからの旬の果実を愛撫する
レスボス それは暑くて寝苦しい夜な夜なの島
老プラトンは白い目を向けて顰蹙するがいい
接吻をしすぎるゆえに レスボスは免罪される
快楽の国の女王よ 愛すべき高貴な島よ
そうして絶えず快感を 洗練深化するゆえに
老プラトンは白い目を向けて顰蹙するがいい
永遠の責め苦のゆえに お前は罪を免れる
大志を抱く人間に 絶えず課される責め苦ゆえ
現世から遠く離れた 別世界との境目に
神の微笑を垣間見て 魅了せられた人間に
絶えず課される責め苦ゆえ お前は罪を免れる
いかなる神が レスボスよ お前を裁き得るだろう
恋わずらいに青ざめた額に 印を捺せようか
お前が海にそそぎこむ涙の量を 天界の
純金製の天秤で 測ったことがないならば
いかなる神が レスボスよ お前を裁き得るだろう
正邪善悪純不純 そんな掟が何になる
誇り高き処女たちよ エーゲ海の栄光よ
その信仰の尊厳は 他の宗教と異ならず
そうして「恋」は「天国」も「地獄」も鼻で笑うから
正邪善悪純不純 そんな掟が何になる
レスボスは 全世界から この俺を選んでくれた
花と咲く島乙女らの ひめごとを歌わせるため
それゆえ俺は 幼時より 血涙を流しながらも
げらげら笑う人間の 心の闇を知っていた
レスボスが 全世界から この俺を選んで以来
このルカートの断崖に 目を光らせて立っている
それは歩哨が 昼も夜も 千里の先にとどく眼で
水平線に 小帆船 二檣帆船 または大帆船
その船影のひらめきを見逃すまいとするように
――そうして俺は 今日もまた 目を光らせて立っている
はたして海に温情があるかどうかを知るために
その慟哭を 岸壁に反響させている海が
罪を犯したサッフォーの 大事な大事な亡骸を
罪を許したレスボスへ 送り返してくれる日が
来るかどうかを知るために 彼女は あの日 旅立った
はたして海に温情が あるかどうかを知るために
「男子」サッフォー 恋多き貴婦人にして大詩人*4
その蒼白な麗貌は ヴィーナスよりも美しい
青い目は 黒いひとみの敵でなく 眠れぬ夜が
隈を作った黒瞳は 碧眼よりも美しい
「男子」サッフォー 恋多き貴婦人にして大詩人
世界の上に立っているヴィーナスよりも美しい
みずからの子に魅せられた老いたる「海」の上にしも
安らかにして平らなる 世にありがたき恩恵と
その金髪と碧眼の光を注ぎかけながら
世界の上に立っているヴィーナスよりも美しい
――その日 彼女は涜聖の罪の報いを受けたのだ
彼女みずから創始した教義と秘儀を踏みにじり
その美しい肉体を 思い上がったけだものへ
聖餐として捧げた だから裏切り者に罰が当たって
その日 彼女は涜聖の罪の報いを受けたのだ
レスボスが 夜ごと嗚咽をもらすのは その時からだ
全人類の賞賛を その一身に浴びながら
殺風景な海岸が 天に向かって巻き起こす
阿鼻叫喚に酔っ払い 罵詈雑言に酔い痴れて
レスボスが 夜ごと嗚咽をもらすのは その時からだ