魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)ボードレール「悪いガラス屋(Le Mauvais Vitrier)」

ヘンリー・コートニー・セルース「第一回万国博覧会開会式におけるヴィクトリア女王とその家族(部分)」。会場は「水晶宮(The Crystal Palace)」と呼ばれた。ウィキメディア・コモンズより。

世の中には生まれつき優柔不断で、行動に不向きな人がいるものだが、そのような人々も、ある謎めいた未知の衝動のもとでは、彼ら自身にも可能とは信じられない迅速さで行動することがある。
管理人コンシェルジュのもとに何かよからぬ知らせが届いているのではないかと恐れて、帰宅する決心がつかず、ゲートの前で一時間もうろうろする人がいる。一通の手紙を開封するのに二週間かかる人もいれば、一年前から要求されていた手続きについて決心するのに、さらに半年を要する人もいる。だがこのような人々も、何かある抗しがたい力に駆られて、突発的に、放たれた矢のごとく、一気に行動を起こすことがある。かくも怠惰にして享楽的な人間の、どこにこのような狂おしいエナジーが潜んでいるのか。またこのような、もっとも必要かつ容易な物事をも処理できない人間が、どのようにして、ある瞬間、もっとも馬鹿げていると同時に、往々にしてもっとも危険でさえある行為を敢行するだけのデラックスな勇気を見出すのか。これは何でも知っていると豪語する心理学者モラリストや医師も説明できないことである。
俺の友だちの一人は、この世でもっとも無害な夢想家だが、森林に放火したことがある。彼は、彼自身の言うには、火というものが世間で言われているほどたやすくくものかどうか、試してみたかった。実験は十回続けて失敗したが、十一回目に度を過ぎた成功を収めた。
たとえば運命を見るために知るために試すために、みずからにエナジーを示すために、賭けをするために、不安の快楽を味わうために、無目的に、気まぐれから、退屈しのぎから、火薬の樽のすぐそばで煙草に火をける者もいるだろう。
これは倦怠アンニュイと夢想から噴出する一種のエナジーである。そうしてこれが執拗に表に現われるのは、上述のごとく、もっとも怠惰かつもっとも夢見がちな人間においてである。
他にもたとえば、人と目を合わせることが出来ないほど気が弱くて、カフェに入るにも、劇場の受付ビューローの前を通るにも、係員がミノスやアイアコスやラダマンテュスの威厳を備えているかに見えて、彼の全意志力を奮い立たせなければならないほど小心な人が、通りすがりの老人の首っ玉にいきなりかじりついたかと思うと、仰天している公衆の面前で、ぶちゅーとキスをする。

「冥府(部分)」。ミノス、アイアコス、ラダマンテュスの三人の裁判官が死者に裁きを下す。彫刻家(小)ルートヴィヒ・マック(Ludwig Mack, 1799-1831)作の淺浮き彫りに基づくルドルフ・ローバウアー(Rudolf Lohbauer, 1802-1873)によるリトグラフウィキメディア・コモンズより。

なぜか。それはこの人相が、彼にとってはたまらなく好ましいものだったからだろうか。かも知れない。だが彼自身にもわからないというのが本当のところだろう。
俺もまた一度ならず、このような危機もしくは衝動の犠牲となってきた。これは悪魔がわれわれのうちに入り込んで、われわれの知らないうちに、その馬鹿げた意図を遂行させるのだという信念を裏打ちオーソライズするものである。
ある朝、目を覚ますと、俺は胸苦むなぐるしく、物悲しく、無気力でぐったりとして、何か大それた、突拍子もないことをしでかしそうな気がした。そうして窓を開けると、ああ!
(ここで読者に注意していただきたいのは、悪人のふりミスティフィケーションの心理とは、ある人々にあっては、熟考や策謀の結果ではなく、偶発的なインスピレーションの結果であって、これは少なくとも欲求の強さという点で、医師たちが婦人病的ヒステリックと呼び、医師たちよりもいささか賢明な人々が悪魔的サタニックと呼ぶところのあの気分の性質を多く持っており、それはわれわれをして有無を言わせず、多くの危険かつ不適切な行為へと走らせるのである。)
俺が街路で最初に目にしたのはあるガラス屋だった。奴の素っ頓狂な呼び声は、パリのよどんだ空気をわたって、俺のいるところまで昇ってきた。だがどうして俺がこのあわれな男に対してにわかに凶暴な悪意を抱くに至ったのか、それは俺自身にもわからない。

ガラス板を背負って歩くパリのガラス屋さん(右)。1950年代。エド・ファン・デア・エルスケン撮影。streetphotographymagazine.comより。

「やい!やい!」俺は奴に向かって大声で上がってこいと言った。とはいえ俺の部屋は六階にあり、階段はとても狭いから、あの男はフラジャイルな商品のかどを多くの箇所にぶつけながら昇らなければならず、いささか辛酸をめるであろうと思うと愉快でなくもなかった。
遂に奴が現れた。俺は奴のガラス板を物珍しげにすべて吟味して言った。「おや、色ガラスはないのですか。ローズやルージュやブルーのガラス、魔法のガラスや天国のガラスはないのですか。恥を知りなさいよ。この悲惨きわまるスラム街をあえてうろつきながら、人生をいいものに見せるガラスすら持っていないとは」そうして階段に突き飛ばしてやると、奴はブーブー言いながらよろめいた。
俺はベランダに近づいて小さな鉢植えの花をつかんだ。そうしてあの男が出入口にふたたび姿を現すや、わが兵器を奴の木枠クロッシュの後端めがけて垂直に投下した。奴は衝撃でひっくり返り、その背中の下で奴の行商用のささやかな全財産が壊滅した。それは落雷によって粉砕された水晶宮クリスタル・パレスの爆音をとどろかせた。
狂気に酔い痴れながら、俺は叫んだ。「人生っていいなあ!人生っていいなあ!」
このようなナーバスなジョークは危険なしでは済まず、またしばしば代償を伴うものである。だが一瞬のうちに無限の快楽を見出した者にとって、永劫の刑罰など何であろうか。

*『小散文詩集(パリの憂鬱)』9。原文はこちら