秋の夕暮れ、それは何と刺さることか。痛いくらいに刺さる。そこには不分明にして痛烈、そんな気持ちのいい痛みの感覚が確かにあるからだ。そして「無限」の切っ先ほど鋭いものはない。
空と海との広大無辺に目を耽溺させる者の、大いなるよろこび。孤独、沈黙、空の青さの比類なき純潔。水平線上にふるえながら、その微小と孤立とによって、もはや術なきわが人生を模倣している微小な帆。寄せては返す波の単調なメロディー。これらすべての事物は私を通して思考する。または私がこれらのものを通して思考する(なぜなら壮大な夢想の中で、「私」は瞬く間に消え失せてしまうから)。私は言う、これらのものは、屁理屈抜きに、演繹抜きに、三段論法抜きに、音楽的に、絵画的に、思考するのだと。
だがこれらの思考は、わが内部から湧き出でるにせよ、外の事物からやってくるにせよ、やがてあまりにも苛烈となる。快感のうちに含まれるエナジーそのものが、不快感や明白な苦痛を引き起こす原因となる。過度に張り詰めたわが神経は、もはや甲高く、苦渋に満ちた振動を発するのみだ。
そして今、空の深さに、私はくらくらする。その透明度に私はいらいらする。海の不感無覚に、風景の不変不動に、私は腹が立ち、胸がむかつく…ああ、永遠に苦しまなければならないのか、それとも永遠に美を忌避しなければならないのか。「自然」よ、無慈悲な魔女よ、常勝を誇るライバルよ、私を見逃してくれ。わが欲望を、わがプライドを、刺激挑発するのをやめてくれ。美の研究とは、とどめを刺されんとする芸術家が恐怖の叫びを上げる一つの決闘だ。
*『小散文詩集(パリの憂鬱)』3。原文はこちら。