一天社から『孔雀船/邪宗門: 明治文語詩傑作選 (一天社古典文庫)』というKindle本が出たので、宣伝せんとアカンのですが、上のリンク先のAmazonの商品紹介ページに書いてあることと重複しそうな内容はすっ飛ばして、何よりまず中身を見ていただきたいので、引用多めで紹介します。
伊良子清白の『孔雀船』
伊良子清白の詩集『孔雀船』は、周知の通り、わが国の幻想文学史に燦然と輝く傑作ですが、これについては前にも書いたことがあります。
上の記事を書いてからもう10年以上経つわけですが、その間も『孔雀船』を読み返すたびに「何でこんなに面白いんやろ?」と自問自答しておったわけですが、結局のところ、この詩集の最大の魅力はその「近代性」にあると思われます。「近代性」とはすなわち、「そこにわれわれ自身を認める」という意味です。
『孔雀船/邪宗門: 明治文語詩傑作選 (一天社古典文庫)』の巻頭を飾る「花売り」という詩の第二節。
蝮に噛まれて脚切るは
山家の子等に験あれど
恋の附子矢に傷かば
毒とげぬくも晩からん
(伊良子清白「花売り」)
「ボードレール風」…という言葉が口を衝いて出かかります。用語の一つ一つは古典的というよりもむしろ土臭い感じのするものですが、その底を流れるトーンの中に、何か「近代的」というか、現代に通じるものが感じられるわけです。この詩の最終節、
市に艶なる花売りが
若き脈搏つ花一枝
弥生小窓にあがなひて
恋の血汐を味はん
(伊良子清白「花売り」)
ここまで来ると、その辺がよりはっきりします。
上に言う「近代性」は、この本(『孔雀船/邪宗門: 明治文語詩傑作選 (一天社古典文庫)』に採られた五篇のすべてに感じられますが、注意すべきは、この近代性が、たとえば蒲原有明等に見られるような、西欧の詞華集を読みかじってマネをしてみました程度の付け焼き刃的な「近代性」とはまったく質の異なる、「自然発生的」なものであるという点です。「自然発生的」とはすなわち、この伊良子清白という人間自体の新しさから来ている、という意味です。「花柑子」という詩の最終節、
清らなる身とかはり
五月野の遠を行く
花環虹めぐり
銀の雨そそぐ
(伊良子清白「花柑子」)
おわかりでしょうか?ここまで来るともう室生犀星の『抒情小曲集』や萩原朔太郎の『月に吠える』の世界まであと一歩、いや、あと半歩のところまで迫っているのです。
北原白秋の『邪宗門』
この『孔雀船/邪宗門: 明治文語詩傑作選 (一天社古典文庫)』という本が編まれたのは、ほんと言うと、『孔雀船』の紹介が主たる目的だったのですが、紙数が足りないということで、白秋先生には誠に申し訳ないが、『邪宗門』のパートは後から付け足されたものです。
さて、『邪宗門』ですが、これは要するに、上田敏の『海潮音』ですね。ただ『海潮音』から派生したものの中では一番優れている、と確かに思います。
で、これが書かれた当時は「退廃」とか「憂鬱」とか言った言葉がよほど持てはやされていたのですね。作者もおそらくそういう気分にどっぷりと浸かりながら書いていたのだろうと思われますが、今のわれわれが読むと、別のところに興味を引かれたりする。たとえば「大寺」という一篇、これは大変面白い詩なのですが、
路次の隅、竿かけわたし
皮交り、襁褓を乾せり。
そのかげに穢き姿して
面子うち、子らはたはぶれ、
裏店の洗流の日かげ、
顔青き野師の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍き目に甍あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
(北原白秋「大寺」)
作者は「退廃的」な情景を歌ったつもりかも知れませんが、今日われわれの胸を打つのは、むしろ「写実的」な表現の力強さです。
あと、私が面白いと思うのは「蟻」という詩です。これは『邪宗門』中の他の詩と少しトーンが違います。『邪宗門』全体を通じて感じられるのは過剰な官能性というか、知的要素の乏しさですが…
時に、われ
世の蜜もとめ
雄蕋の林の底をさまよひぬ。
(北原白秋「蟻」)
この「蟻」という一篇だけは、少し知的というか、抽象的というか、異質なトーンが感じられます。事実、この一篇を日夏耿之介の『転身の頌』に紛れ込ませておいたら、見分けが付かなくなるのではないかと思われます。要するにここにも「時代の先取り」が認められるわけです。