表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
葉室麟『孤篷のひと』(KADOKAWA)を読了して。
安土桃山時代に大名(従五位遠江守・伏見奉行)として、古田織部の一番弟子として活躍するも、その後袂を分かち、自分自身の茶道を作り上げ、藤堂高虎の養女を正室として迎え、更には作庭家として69歳の人生を全うした、小堀政一こと小堀遠州の物語です。
小堀遠州の生きた1579年~1647年は、安土桃山時代から江戸時代初期(将軍は3代家光・島原の乱鎮圧の頃)に相当します。その時代に3大茶人と言われた千利休(宗易)、利休七哲の一人の古田織部、そしてその高弟の小堀遠州の三人三様の茶人としての美意識(己の茶道)をどの様に体現して、時の天下人(権力者)と対峙したうえで、茶人あるいは茶人武将としての人生を全うしていったのか。また複数あると想定される選択肢の中から、何故一番困難な道を選んだのか(千利休と古田織部は共に切腹、古田家は絶家する)。勇敢と言えば勇敢だが、無謀だと言えば無謀な「茶の戦」に何故挑んだのかの謎解きが楽しめます。
その謎解きは「遠州の四年詰め」からようやく伏見屋敷に戻った小堀遠州が、豪商松屋久重相手に昔語り(回想)をする場面から始まります。小堀遠州の目指す茶道は、初代長次郎が焼いた分厚い黒楽茶碗を用いた利休のようでなければならないし、利休のようであってはてはならない、歪んだ暗緑色の美濃焼を用いた古田織部のようでなければならないし、古田織部のようであってはいけないとの禅問答から始まります。ではどうすればよいのか?
即ち、融通無碍の境地の小堀遠州独自の茶を極めることです。あからさまに時勢におもねらずに。それは、皮肉なことに利休が言っていた、退屈な泰平の茶となって完成します。それは、将軍家光に茶を献じて気に入られて四年間江戸に足止めされた伊達政宗にも、献茶の手ほどきを指南していることからも成功していると言えるでしょう。泰平の茶は生き残るための茶。
これは、幾度も仕える主人(武士)を変えた岳父の藤堂高虎とも微妙に共通していますね。
また葉室麟の視点から、千利休がキリスト教に関心があったのではないかとの観測も出ています。利休七哲の高山右近(追放先のマニラで客死)や蒲生氏郷(洗礼名レオン)がいたことや、利休が執拗なまでに躙り口や狭い茶室にこだわったのか、これらは全て新約聖書のマタイ伝第7章の“狭き門より入れ”の教えに影響を受けた結果とされています。
同じく利休七哲の一人細川忠興の正室お玉(明智光秀の三女)は、美貌を謳われながら悲運に散った細川ガラシャです。キリスト教徒は自殺できないので、家臣に自分を殺させます。
古田織部の娘琴もキリスト教徒です。
また利休の高弟の山上宗二についても、筆者は長い間一面的に、師匠利休に幾度注意されても、山上宗二の生来の楽天的で不遜な気性と口の悪さが矯正されず、やがて太閤秀吉の逆鱗に触れ、無残にも刑死したとばかり信じていましたが、意外な答えがありました。作品中何故山上宗二を逃がさなかったのかの疑問に対して、利休の答えは「捨て殺しに致します」です。この答えこそ、山上宗二は、太閤秀吉に対して忖度しない(相手に殺されてもよい覚悟の)「茶の戦」を実践する利休の一番槍で討ち死にしたとの解釈です。
小堀遠州は、頑なになってゆく師匠古田織部(わざと茶碗を割り、金継ぎをした茶碗を用いる&豊臣家共謀の謀反を徳川家康に疑われていることは承知の上だった)を何故救えなかったのかの生涯の後悔からか、織部の娘琴が捕らえられているのを知った後、琴が所有していた織部の遺品の茶杓と引き換えに琴の命を救います(琴は茶杓と茶筒を組み合わせ手製の十字架として持っていました。キリスト教禁止の時代です)。
このほかにも、多士済々な人物が出てきます。
戦巧者の徳川家康、偉大なる父の意を汲むことに必死な秀忠、3代目徳川家光(浅井三姉妹の三女お江が生母、伯母は茶々)は実弟駿河大納言忠長を切腹させた苦しみを抱えている。
そして同じく実弟小次郎を討った伊達政宗。三好三人衆と切り結び死んだ剣豪将軍足利義輝。逆賊石田三成のために経を詠んだ沢庵宗彭、幕府の黒幕金地院崇伝、関ヶ原戦前に万代屋宗安に名物“万代屋肩衝”を返した石田三成、かつて豊臣家の猶子となったばかりに徳川の世では冷遇されている境遇を受け入れている八条宮智仁親王等々です。
小堀遠州の永訣の言葉は「私は川を進む一艘の篷船であった思う、決して孤舟ではなかった」。
長くなりましたが、読んで下さりありがとうございました。
茶道全般、戦国時代から泰平の世に移る世情での武将の身の処し方、徳川幕府を震撼させた島原の乱、京都の宮中と徳川家康との静かな戦などに興味のある方にお薦めします。
一天一笑