表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから内容紹介をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
吉川永青『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』(中央公論新社)を読了して。
華やかな元禄文化を生み出した元禄年間(1668年~1704年)、五代将軍・徳川綱吉の治世に“紀文大尽”と呼ばれ、六代将軍・家宣、七代将軍・頼宜の短い治世を経て、緊縮財政の八代将軍・徳川吉宗の時代に“政道が変化した”のを理由に、余力のあるうちに(ある日突然解雇ではなく、従業員に退職金を用意できる余裕をもって)材木商・紀伊国屋を畳み、別所武兵衛を名乗り、俳句に親しむも、最後は零落し病没するが、本人は決して後悔しなかったであろう紀伊国屋文左衛門の生涯を、吉川永青が丁寧で確かな筆致で描きます。
紀伊國屋文左衛門は河村瑞賢を商売の師匠と仰ぎます。
「詰まるところ、世の中は人と人でできている。世の中を動かせないなら、せめて世の中を作る仕事がしたい」
師匠のこの言葉と、一緒に旅をしていた婚約者を亡くしたことで、心に一生消えない傷を負った紀伊國屋文左衛門は、故郷(和歌山県湯浅市)を離れ、江戸へ出ます。
故郷で材木問屋・西浜屋の手代を務めた経歴を買われ、材木問屋に奉公をします。
商売のセンスがある紀伊國屋文左衛門は、予定より速く木を切り出して、運搬に成功します。
この時、協力関係にあった樵は、後に紀伊國屋の手代・長次郎となります。使える人材として、紀伊國屋文左衛門に見込まれたのです。
他にも、紀州では安く簡単に手に入る蜜柑が、江戸では貴重であることに目をつけ、船乗りと交渉(儲けを気前よく分配)し、荒天の海に船を出し、多量の需要が見込まれる“ふいごまつり”に間に合わせます。莫大な収益を上げました。以後、この蜜柑の運搬は定期便となります。これによって、本業は材木問屋であるにも関わらず、“紀文大尽”と揶揄されるようになりました。
やがて、故郷から屋号を採り、材木商“紀伊國屋”文左衛門として独立します。
当時お上(幕府)の認可を得なくても、開業できるのは材木屋と呉服商でした。
商売敵の奈良屋茂左衛門との軋轢や、新参なのに材木商の既存の組織に加入しない事への陰湿ないやがらせなどもありましたが、元禄十年八月末、東叡山寛永寺の根本中堂の普請を見事終わらせます。その祝いとして、吉原総上げ(貸し切り)を行います。
江戸っ子は良くも悪くも拍手喝采です。一晩で千両箱が幾つカラになったことでしょう。
時流に乗った紀伊國屋文左衛門は、吉原遊郭を使い、幕閣を接待します。
江戸は火事が多いので、付け届けや接待をしたら、仕事を廻して貰える?
主要メンバーは、側用人・柳沢吉保、勘定奉行・荻原重秀、老中・阿部正武などです。
中でも、柳沢吉保には、ナンバーワンの高尾太夫をつけます。費用はどれくらいかかったのでしょうか?全盛期の紀伊國屋だからこそ支払えた費えですね。
後に、前妻・凪と死別した紀伊國屋文左衛門は、自分の担当だった几帳を落籍させて、後妻・まつとして迎え、三男・明生をもうけます。明生は、異母兄たちとは違い、貧困の中で成長します。
元禄八年(1695年)、勘定奉行・荻原重秀から、元禄金銀の鋳造を引き受けないかと持ち掛けられます。ちょうど材木問屋から両替商への鞍替えを試みて、認可が下りず、苦戦していた文左衛門は、いささかの不安を覚えながら応じます。
その当時、流通していた慶長金銀より、金の含有率が少ない元禄金銀を鋳造するのです。いわば悪貨をつくるのです。
この話は、勘定奉行・荻原重秀との今までのつきあいがあるとはいえ、断われた話ですが、ビジネスライクで割り切ることの出来ない気性、江戸商人の誇りを持った紀伊國屋文左衛門は、財産の殆どを鋳造に賭けます。これが零落の主原因です。
元禄金銀は、綱吉の病死と呼応するように、流通しなくなります。
零落しても、奉公人たちに退職金を出す余力のあるタイミングで、店を畳みます。一緒に商売をしてきた兄弟たちにも財産を分け与え、故郷に返します。
紀伊國屋文左衛門の名を、別所武兵衛と、名乗りを変えます。
自分たちの生活は、昔、老中・阿部正武に貸していた金の返済で糊口をしのぎます。
阿部家も、息子の代でも責任をもって返済します。
口さがない江戸っ子たちは、紀文大尽も落ちぶれたものだと囃しますが、気にはしません。むしろ、吉宗の時代になり、政道が変わったからには仕方がないとあっさりしています。
当時としては長生きの六十六歳まで生きたため、息子や弟、かつての商売敵の奈良屋にも先立たれます。
時流に乗り、儲けても、自分の商売の哲学を見失うことなく「世の中は人と人でできている」との信念を貫いた紀伊國屋文左衛門の物語をお楽しみください。
一天一笑