表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
今村翔吾『蹴れ、彦五郎』(祥伝社)を読了して。
これは、甲斐・相模・駿河の三国同盟の一端を担った、今川彦五郎氏真と、北条氏康の息女・早川殿(由稀)の物語です。
天文二十三年(1554年)頃、今川義元の息女が武田義信に嫁ぎ、武田信玄の息女が北条家に嫁ぎ、今川家には北条家の息女が嫁ぎます。そのような婚姻政策が破れても、添い遂げた夫婦の物語です。
永禄十二年(1569年)、今川氏真の籠城する掛川城が、徳川家康の軍に攻められ、開城する場面から始まります。桶狭間の戦いから九年後です。
これまでと悟った氏真は、家康との和睦の仲立ちを北条氏康に頼むよう、家臣に命じます。つまり北条家の厄介になりに行くわけです。
二年後、落ち延びた彦五郎と由稀、および旧今川家家臣のために館を建て、「好きなだけ居ればよい」と後押ししてくれた由稀の実父・北条氏康が病没し、次男の氏政に世代交代します。当主が変われば、政策も変わります。弟の氏照と氏邦とは揃って、由稀に今川氏真との離縁を勧めます。
夫・氏真は、駿府復帰の際には、弟・北条氏規を養子に迎えると北条家に約束していた(氏規はかつて今川家に人質として逗留していた)ものの、由稀は実家とはいえ、針のむしろ状態です、
早川館を訪問した氏規が表情を曇らせて言う。
「当家は再び武田家と同盟します。揉めるより結ぶほうが得策です。仇敵の上杉は適度に勝たせてやれば満足するが、武田はやっかいです。ここ早川館に一刻後、信玄の放った暗殺者達がやってきます。当家は暗殺を黙認します。私は姉上を小田原に無事逃がします」
その数五十。いずれも手練れの「三ツ者」(忍者)たちだ。馬を用意できたのは、彦五郎、由稀を除けば二騎である。由稀は、実父・氏康譲りの策を打つ。
徒歩の者たちを適宜に切り離し、一陣・二陣と追撃者たちを足止めするための鉄砲を打ち鳴らさせるのだ。三ツ者たちの標的は氏真一人なので、武運があれば生きられる。
だが、三陣まで撃ったところで追い付かれた。追い付かれたのち、氏真は下馬し、リズムの良い身のこなしで、塚原卜伝直伝の剣の腕を見せます。多勢に無勢のところ、三十騎を連れた氏規に助けられます。
「ここは任せて落ちられよ。我が領地・韮山までゆけば、三津港から船に乗れるよう、手筈はついている」
氏真と由稀は辛くも窮地を脱します。
天正元年(1573年)秋、由稀と氏真は、京都に遊びに行きます。歌や蹴鞠での人脈をたどれば、宿泊先には困りません。供は僅かに二人です。気ままな旅を楽しみます。
帰途に近江国野洲郡にある錦織寺に立ち寄り、住職の慈船と語り合います。
氏真と由稀は、境内を七・八人の子供たちが掃除をしているのが、どうしても気になった。
髷を結っているからには、寺の小僧ではないと察せられる。案の定、大きな声では言えないが、信長に滅ぼされた六角氏の家臣の子供だという。慈船が保護したというが、子供心にも、親の仇討ちをして、六角家再興を果たしたいとの希望をもっているらしい。
氏真は目が覚める思いがした。今川家がなくなっても今川家再興を望まない自分は、ゆうゆうと暮らしているが、そうではない領民もいたのだろう。激しい後悔に襲われた。
由稀が兵法を教え、弓槍の使い方を教えるのは氏真である。
寺で軍事訓練もどきをする訳にはいかないので、近所に手頃な家を借りた。
武将としては、からきしの氏真だが、人に教えるのは上手故に、少年たちの進歩は速かった。だが人殺しの技を教えている心の呵責に耐えかねて、京都から鉋、毬括りの道具、算盤、画材、茶道具を取り寄せた。
「私たちは武士になりたいのです」
と叫ぶ少年たちの前で、見事な蹴鞠の技を見せ、
「これを身に着けるまで二十年かかった。毬括りの技もそうだ。今から自分の好きを見つければ、やがて形が見えるだろう。道具を手に取ってみよ」
子供たちは、あるものは算盤を、あるものは画材を手に取ります。お家再興だけが、人生のすべてではないのだ。氏真は安堵します。
天正二年(1574年)、氏真と由稀は、家康からの報せにより、駿河に戻っていった。
氏真は、家康から告げられた。
「織田殿が治部殿の蹴鞠を見たいと言っている」
無下には断れないが、いかな氏真でも、父・義元の仇の前で晒し者にされるのは…。
家康には気の毒ではあるが、病気と偽り、日延べをしているうちに、信長が忘れてくれるように祈った。なので、出歩く訳にはいかず、錦織寺の子供たちに会いに行くわけにもいかなかった。氏真なりに、信長の気性は理解している。
案の定、信長からふた月毎に「本復したか」との催促が来た。
天正三年(1575年)、錦織寺の慈船から書状が届いた。
読み終えた氏真は、由稀が今まで見たことの無い怒りの表情をしている。
譫言のように言った。
「寺の子供たちが殺された」
信長の命令で六角氏の残党狩りが行われた。錦織寺に六角氏所縁の者がいると誰かが密告したのだろう。子供たちは連行され、何れの者も斬首された。
氏真は鬼気迫る表情をして由稀に言った。
「由稀、信長に物申したい事がある。蹴鞠の申し出、受けて立つ」
天正三年三月二十一日、相国寺にて蹴鞠を披露することが決まった。
当日の朝、氏真に蹴鞠用の鴨靴を渡しながら言った。
「ご武運をお祈り申し上げます」
氏真は、蹴鞠の正装である、水浅葱の毬水干と毬袴に身を固めた。
蹴鞠は、本来の段階を踏んだ流れではなく、信長の意に沿った形で行われる。
対戦相手は、百年に一度の名足といわれる飛鳥井雅教率いる飛鳥井の七名。氏真の方は当日の寄せ集めである。
しかも、信長の狙いは氏真を辱める事なのだ。
試合の結果はどうなるのか?信長に申し述べたいこととは何か?
一メートル七十七センチ前後と体格に恵まれ、身体能力も高かったであろう氏真はどう戦うのか?
この試合後、氏真は蹴鞠を止めた(燃え尽きた?)。
武家に生まれながらも、職業選択の自由(?)の先駆けをしたような氏真の活躍をお楽しみください。
一天一笑