魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

『悪の華』の邦訳

以下の記事は、今から10年以上前に書いた記事に、少し引用文を付け足したものであることを、先にお断りしておきます(2020年5月)。


さっき近所の紀伊国屋に行って、『悪の華』の邦訳が無いか探してみましたが、昔ながらの堀口大学訳(新潮文庫)と鈴木信太郎訳(岩波文庫)しかありませんでした。もっと新しい訳がたくさん出ているはずですが、あまり読まれていないのでしょうか。

村上菊一郎訳『悪の華

私が最初に読んだ『悪の華』は村上菊一郎訳(角川文庫)で、確か中学の頃だったと思います。これはいま手もとになく、恐らくもうどこにもないでしょう。当時の読後感は、まあ、大半はちんぷんかんぷんでしたが、「不遇」という淋しい感じのする詩と、「沈思」という優しい感じのする詩と、「顔の約束」という少しエッチな詩が印象に残りました。

齋藤磯雄訳『悪の華

いま手もとにある邦訳は、鈴木信太郎訳と齋藤磯雄訳です。
大学の頃、この齋藤訳に出会いまして、私の『悪の華』に対する理解は一気に深まりました。齋藤教授の訳詩の特徴は、文語の訳詩が非常に典雅で優れていることです。朗々たる歌い口で、何かドイツのロマン派歌曲の歌詞を思わせるものがあります。少し引用します。

追憶おもひでの母なるひとよ、恋人の中の恋人、
君よ、わが快楽けらくのすべて、君よ、わが義務つとめのすべて、
愛撫かいなでのかの快さ、炉辺ゐろりべのかの和やかさ、
黄昏かはたれのかのまぐはしさ、いま胸に思ひ浮かべよ、
追憶おもひでの母なるひとよ、恋人の中の恋人。
(「露台」)

まあ、ちょっとこれ以上のものは考えられませぬ。
私が先日まずい訳詩を披露した「旅へのいざなひ」の出だしは、こんな感じです。

 いとし子よ、妹よ、
 想へその楽しさを
彼処かしこに行きて共に住み、
 のどかに愛し
 愛して死なむ、
君にさも似しかの国に。
 狭霧さぎらふ空に
 うるむ日は
涙のかげにきらめける
 偽り多き君が眼の
 いと神秘くしびなる
魅力もて、心を奪ふ。

彼処、悉皆ものみなは秩序と美、
奢侈おごり静寂しづけさ、はた快楽けらく

他にもたとえば「ベルトの眼」のような何でもない小品が、原文を髣髴とさせる典雅さで訳出されているありさまは、まさに感涙ものです。

世に隠れなき明眸を、あざむに耐へし、吾妹子わぎもこ
うるはしき眼の中よりぞ、何かは知らね、「夜」に似て、
懐かしきもの、良きものの、にじみて溢れいづるかな。
うるはしき眼よ、ああ、われに、蠱惑の闇をそそげかし。
(「ベルトの眼」)

若い読者にはピンと来ないかも知れませんが、こういう歌い口は、私なんかには本当に堪らない魅力があるのです。

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アングル作「奴隷のいるオダリスク」。ウィキメディア・コモンズより。

ささやかなれどきよき住まひや、
此処に乙女はよそほひこらし、
心しづかに待つあるごとく、

片手に胸をあふぎやりつつ、
肘をしとねにふかくうづめて、
聴くや、なげかふ噴水ふきあげのこゑ。

これぞドロテが起き臥しのへや
――この寵ほこる乙女をりて、
はるか彼方に、風、はた、水の、
すすり泣くも絶え絶えの歌。

余すくまなく、心を籠めて、
たわやぐ肌にひた塗りこめし
香膏にほひあぶらと安息香。
――花、片隅に、くわうと絶え入る。
(「此処より遙か遠く」)

フランス語の詩を日本語に訳したというよりも、初めから日本語で書かれていたのではないかと疑われるほど自然な措辞です。ここで一つ思い浮かぶのは、佳い訳詩というものは、佳い創作詩と同じく、ある種のインスピレーションを基礎として展開されているということです。上の訳詩なんかはその好例だと思います。
さて、以上にご紹介してきたのは比較的明るい感じのする詩ばかりですが、ボードレールの詩というのは、『悪の華』というくらいですから、もっと暗い、背徳的な詩が本領であるわけです。そういう方面でも、齋藤教授は、力強く、またわかりやすい訳詩をたくさん遺して下さいました。

絶え間なくわがかたはらに「悪魔」は騒ぎ、
触れ難き大気にも似て四方よもに漂ふ。
呑み込めば、たちまち肺は、くるがごとく、
罪深く、はたきはみなき慾情に満つ。
(「破壊」)

次のソネットの訳詩なんかは絶妙を極めていると思います。

パスカルに深淵ありて、かたはらを離れざりけり。
――ああ、なべて、ふかふちかな、――行為おこなひも、欲望のぞみも、夢も、
言の葉も。しかしてわれは、あまたたび、わが逆立てる
髪の上、「畏怖おそれ」の風の吹きゆくを、ひしと覚えぬ。

上と下、到るところに、そこひなき幽玄ふかみ荒磯ありそ
沈黙しじま、はた、心を奪ふ恐ろしき虚空のすがた、……
わがよるの暗き奥処おくがに、神はそのさとき指にて、
小止をやみなき変幻自在の悪夢をば描かせ給ふ。

茫漠と畏怖ゐふ立ち籠めて、いづかたへ到るともなき、
洞穴ほらあなを恐るるごとく、われは、かの睡眠ねむりを恐る。
ありとあるまどの彼方にわが見るは、唯、無限のみ。

かくてわが、常住不断の眩暈くるめきに憑かれし精神こころ
かの虚無の、不感無覚を、ひたぶるに求めてまず。
――ああ、「すう」と「存在」とより、のがれむにすべなきわれか。
(「深淵」)

「ありとあるまどの彼方にわが見るは、ただ無限のみ!」本当に凄いとしか言いようがありません。ここで注目したいのは、たとえば「こと」とか「荒磯ありそ」とか、われわれの日常会話ではまず使われることのない過度にお上品な言い回しが、ここでは詩全体の恐怖感を盛り上げる上で、非常に大きな役割を果たしている、という点です。

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PexelsのJackson Hunterによる「緑の眼」の写真

酒はいぶせきしづを奇蹟のごとき
 豪奢もてよそほひ飾り、
曇れる空に沈みゆく夕陽ゆふひのごとく、
 くれなゐもやきらめくなか
あまた架空の廻廊を湧き上がらしむ。

鴉片あへんきはみなきものを、いよよ拡げて、
 無限はてなを、更に押し伸べ、
時を深めて、逸楽の穴を掘り下げ、
 限度を超えて魂を
暗く沈める歓びに溢れ充たしむ。

斯かるすべても、君がまみ、緑のまみ
 湧きいづる毒にはかじ。
わがたまふるへ、さかしまに映る湖水よ、……
 わが夢はむらがつどひ、
このしほからき深淵に渇きをいやす。

斯かるすべても、骨を噛む君が唾液の
 凄まじき魔力にかじ。
そはわがたまくいもなく忘却わすれに沈め、
 眩暈くるめきさはもたらし、
えだえに追ひ放つ、すゑや死の岸。
(「毒」)

このダークなエロティシズム。これぞボードレール!という感じがいたします。
というわけで、齋藤訳は、文語訳は優れているのですが、口語訳が面白くありません。たとえば先に触れた「沈思」など、

お聴き、いとしい「苦悩くるしみ」よ、やさしい「夜」の、跫音あしおとを。
(最終行)

といった調子で、無理やり七五調に押し込めようとするせいでしょうか、リズムが変で、面白くありません。齋藤教授はテオフィル・ゴーチェの『七宝とカメオ』も全訳されていましたが、こちらはほとんど全部が口語訳詩で、面白くも何ともありませんでした。

鈴木信太郎訳『悪の華

鈴木信太郎博士の訳は、これとは反対に、口語訳詩の方が優れています。鈴木博士の文語訳詩は大変読みづらい。

わが冷やかなる驚愕おどろきに、眼を忽ちに閉ぢたれど、
光明 燦々たる中に、再び開けば、奇怪也きつくわいや
わがかたはらに、人間の血を なみなみと貯へし
力のこもれる蝋人形 かたちも失せて、骸骨の
雑然として 散乱し、骨は震へて、冬の夜に
(「吸血鬼変身」)

これは日本語なのでしょうか?仏語原詩の方がはるかに平易でしょう。
しかし口語訳のものは洒落ていて、軽妙なのがいろいろあります。たとえば、

色白く 赤毛の娘よ、
お前の着物がほころびて
貧しさばかりか 美しさまで
 のぞかせてゐるが、

へつぽこ詩人の俺にとっては、
雀斑そばかすだらけで、病的な
若いお前の肉体が
 好きでたまらぬ。
(「赤毛の乞食娘に」)

 

女房が死んで、俺は自由だ。
だから お酒も飲み放題だ。
一文なしで 帰つてくると
むかしは女房の雷が骨身に沁みたが。

王様と同じくらゐに 今は幸福だ。
空気は澄んで、大空 晴れて…
俺が あいつに惚れたのも
思へば こんな夏だつた。
(「人殺しの酒」)

 

次の無題のソネットの訳詩など、ハートフェルトというのか、読んでいるとしんみりとした気分になってきます。

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オーギュスト・クレサンジェ作「蛇に噛まれた女」。モデルは当時人気のあったクルチザンヌで、ボードレールに下のソネットの着想を与えたサバティエ夫人。ウィキメディア・コモンズより。

今宵 何を語らうとするのか、孤独な哀れな魂よ、
何をお前は語るのか、わが心よ、昔 しぼんでしまつた心よ、
この上もなく美しい、優しい、恋しい この夫人に。
そのきよらかな眼が 忽然と心の花をまた 咲かせたのだ。

――われらは夫人をたたへる歌を歌つて ほこりとしよう、
そのなごやかに支配する権威に 勝るものはない。
精霊のやうな肉体は 天使のかをりかんばしく、
その眼は われらを 光明のころもの中につつんでしまふ。

たとへば それが夜であり孤独の中であらうとも、
たとへば それが街頭で 群衆の中であらうとも、
その幻影まぼろしは 空中に 炬火たいまつのやうに舞ひ踊り、

時をり語つて、『わたくしは 美しいから、わたくし
愛するためには ただ美のみを愛するやうにと命令する。
わたくしは守護の天使、詩の女神、聖母である』と幻影まぼろしは言ふ。

下のようなストレートな訳し方は、おそらく万人の胸に響くものでしょう。

慰めて、ああ、生きさせてさへくれるのは 死だ。
それが人生の目的だ。またそれが、霊薬のやうに
俺たちのうちたぎつて 俺たちを酔はせてくれて、日暮れまで
歩き続ける勇気を与える 唯一の希望なのだ。
(「貧者の死」)

一見無造作に訳出されているように見えますが、ほんと言うと、こういう訳し方は、誰にでも出来るわけではありません。
悪の華』の掉尾を飾る雄篇「ル・ヴォワイヤージュ」は、まことに偉大な作品で、ボードレールの代表作の一つと言っていいだろうと思いますが、これの有名な最終二節は、以下のように訳されています。

おお 死よ、年老いた船長よ、時が来た、錨を揚げろ。
この国に、おお 死よ、俺たちは飽き飽きした。船出しよう。
若し空も海も 墨のやうに 黒いとしても、
俺たちの心は、お前も知るとほり、光明に満ち溢れてゐる。

俺たちに力をつける お前の毒をそそいでくれ。
俺たちは、その火炎に脳髄を激しく焼かれて、
地獄であらうと天国であらうと構はぬ、深淵の底に飛込み、
未知の世界のどん底に 新しさを探し出さうと欲するのだ。

ボードレールは当時の進歩主義者たちに向かってこの皮肉を投げつけているのですが、このメッセージは現代においても十分通用する、というよりも、現代における方がより破壊力を増しているのではないか、という気がいたします。
という次第で、私の考えでは、鈴木博士の口語訳詩と齋藤教授の文語訳詩とを混ぜ合わせれば、現状では最良の日本語版『悪の華』が出来上がるのではないかと思います。もっとも、これからさらに優れた訳詩が発表されることでしょうが。


 

下は齋藤磯雄訳。原則として新字旧仮名遣い。

こちらは鈴木信太郎訳。旧字旧仮名遣い。

悪の華 (岩波文庫 赤 537-1)

悪の華 (岩波文庫 赤 537-1)