魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(9)

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ロメーヌ・ブルックス作「ミス・ナタリー・バーネイ、またの名を『アマゾーヌ』」。英語版ウィキペディアより。

彼女たちがもっとも鋭く対立した点、そうして他のあらゆる言い争いがその周囲に結晶した一つの問題点とは「一婦一婦制」('monogamy')*1であった。私はここでナタリーの性役割とエロティックな人間関係に関する複雑な理論に対して正当な評価を下す任に堪えない。ただナタリーは性役割についての批評を発展させて、それはまたエロティックな情動の構造に関する批評をも包含していた、とだけ述べておこう。
ナタリーは性役割が、それとは裏腹な性に割り当てられている「人格特徴」('personality traits')の抑圧を命じる時、それは恋人たちの双方を傷つけるのだと感じていた。彼女はまた、たとえば恋人たちが二人で一つであり、半身が他の半身に恋い焦がれていると感じる時、そのようなエロティックな関係性は、上のような人為的な性分割からその構造を引き出していると考えた。ナタリーは嫉妬心や、所有欲や、独占欲といった感情は、このような性的システムに由来すると感じ、それはまた女性の二次的地位にその責めを帰すべきであると考えた。ナタリーは人間関係は相互の依存よりも、相互の自立を基礎とすべきであり、恋愛は決して貞操観念によって束縛されるべきではないと主張した。貞操とは、彼女の考えでは、愛と欲望の死を意味していた。
ナタリーはこのような理想を抱いて精一杯生きた。彼女が愛を捧げる時、それは永遠の愛だった。とは言え、それは彼女が同時に他の女性にも愛を捧げることを妨げるものではなかった。このような愛され方は、考え方がもう少し旧式な女性や、心の出来がもう少し素朴な女性には必ずしも喜ばれなかった。ナタリーは自分自身は嫉妬に苦しんだことはなく、もっぱら他人の嫉妬に苦しめられてきたといつも言っていた。あらゆる恋人たちの中で、ただロメーヌ・ブルックス(Romaine Brooks, 1874 – 1970)だけがナタリーの恋愛観を共有した。ロメーヌとナタリーは半世紀にもわたって恋人同士だったにもかかわらず、別々に暮らしていた。彼女たちが南フランスに別荘を建てた時、それは一揃いの共同部屋でつながっている二つの邸宅から成り立っていた。
ナタリーの他の恋人たちは、一般に、彼女の乱淫をあまり快く思わなかった。理想はともかく、ナタリーはボス猿が持つあらゆる本能を持ち合わせていた。ジャン・シャロンは彼女の行動様式をもっともよく描き出しているが、その中で彼は彼女のハーレムが通常第一位に君臨する「サルターナ(サルタンの妻)」と、一人か二人の「寵姫」、およびそれほど愛されていない「その他大勢」から構成されていたことを特記している。*2*3

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ドリー・ワイルド。ウィキメディア・コモンズより。

*1:訳者注:「一婦一婦制」というのは私の造語ではありませんで、シェア・ハイトの『なぜ女は女が嫌いなのか』という本の中で訳者の石渡利康氏が採用されていた訳語です。

*2:原注:ドリー・ワイルドの死後、ナタリーは追悼文集を編んだ(『ドロシー・アーン・ワイルドを偲んで』1951年)。その本にはまたドリー・ワイルドの手紙がかなりたくさん収録されている。その何通かはある特定できない友人に宛てたもので、その多くはある情人(ナタリー)に宛てたものである。それらはナタリーの後宮の内部の異様な光景を垣間見せてくれる。以下の抜粋はくだんの友人に宛てたものからである。
「…15日間にわたる自動車旅行は多くの点で素晴らしいものだった。とは言え、R…(ロメーヌ・ブルックス)のその場への到着は、私にとっては想像もつかないほどの苦しみの前触れだったのだけれどもね。今度お会いした時に何もかもお話しするわ。すべてがわかりきった成分で出来ている物語の一部始終をね。親愛なるマダム・ド・C…T…(クレルモン=トネール公爵夫人)が私たちと一緒にいて、彼女は美しく、素晴らしく、そうして彼女のお気に入りの誰かさんにはとても思いやりがあって、だからこそ彼女は表向きは楽しい夕べがお開きになったあと、真夜中に起き出して、私の部屋まで忍んで来て下さったの。なぜなら私がとても悲しそうに見えたから…そうして私はその時本当に一人で泣いていたの…ああ、それは何と乱暴で優しい慰め方だったことかしら…
「…私は次第にS…(ナタリー・バーネイ)が超人的な知性の持ち主ではないかと考えるようになった。悪い意味での感じやすさが微塵もない。それでいて相手の品性を的確に見抜いている。彼女は優しくない。けれど外套程度のあたたかさを装うことは出来る。ロマンチストではないが、必要に応じてロマンティシズムと馴れ合うことは出来る、等々。彼女ととても楽しい一週間を過ごして、今の私は新しい活力に満ちた殉教者のような気分よ。痛い目に会わされたことなどケロリと忘れているの…」
後日、ドリー・ワイルドはナタリーに宛てた手紙の中で上の手紙について論じ、彼女のナタリーに対する初期の反応を撤回している。
「これを読み返してびっくりしたわ…あなたは私の一大事。私の人生で他に大事なことなんか何もないのよ。思い出せば、私はあの頃あなたを高い高い山のように感じていた。私を高めてくれると同時に恐れを抱かせる、そんな存在だった。私は今はこの文章、あなたのキャラクターを描写した自分の文章を読み返して赤面する(とは言えそれは部分的にはとても当たっているところもあるのだけれど)――それにしてもあなたのことを『外套』呼ばわりとは、これは無かったことにしてちょうだい、ダーリン!あなたの優しさに触れると、私は本当に心があたたかくなる」
ドリーの手紙のうちの一通によれば、実はナタリーも相当な焼きもち焼きであったことがうかがえる。
「…今朝はなぜ私に対してあんなに厳しい態度を取られたの。あなたは嫉妬心を持ち合わせてはいらっしゃらないのだから、どんな原因、どんな理由であなたが怒っていらっしゃるのかさっぱりわからない。なぜ?なぜ?…私にはあなた以外に好きな人なんていやしない…私は電報を打つつもりで、あなたがマルセイユから電話を下さったあと、私の『今の恋人』なる者にすぐに出て行ってもらうよう手配した――何の未練もないわ。あなたが急に電話を切ってしまったから、私には十分な説明が出来なかった。それで昨日は一日中電話をかけていたのに、その結果がこのありさまよ。明日の12時から私はひとりぼっち。お願い、わかって。ダーリン、私を嫌いにならないで」
にもかかわらず、ドリーの下の手紙を読むと、ナタリーが相変わらず一人の女性に束縛されるのを嫌がっていたことがわかる。
「私はあなたがいっそ誰にでももっと親切で、私の愛読書や、書きさしの便箋等々に、特別な愛情のしるしを残して下さらなかったらよかったのにと思わずにいられない。私は傷ついた――不必要なほど深く。全パリが私の耳に果てしのない物語を注ぎ込んでくる――けれどそれを耳にするのもだんたん苦痛ではなくなってくるの、『これが運命なんだ』と思ってね…
「…あなたのハーレムの女たちに向かって、大声で忠告してやりたいところよ、『お気をつけ遊ばせ』ってね…」

*3:訳者注:英語版ウィキペディアの記事から、ドリー・ワイルドの人となりを簡単にご紹介しておきましょう。
「ドリー・ワイルド(Dolly Wilde)ことドロシー・アーン・ワイルド(Dorothy Ierne Wilde, 1895-1941)はアングロ=アイリッシュの社交家で、オスカー・ワイルドの姪であることと、ウィットに富んだ座談の妙手であることで有名になった。そのチャームとユーモアとで二度の大戦間のパリのサロンで人気者となり、才気煥発する話者たちで知られた社交サークルにおいても一頭抜きん出ていた。(中略)
「彼女が1927年からその死までもっとも長く付き合い続けた人物はオープン・レズビアンアメリカ人作家ナタリー・クリフォード・バーネイで、この人は20世紀におけるもっとも有名なパリの文学サロンのうちの一つの主催者だった。
「ジャン・シャロンの初期のナタリー・バーネイ伝は、『ある女誘惑者の肖像』というタイトルで英訳が出ている(訳者注:『レスボスの女王』の英語版です)が、その一部分によれば、バーネイはその著作やサロンよりも、その数多い女性関係で広く知られるようになった。彼女はかつてある一覧表を書き出したが、それは『愛人』『半愛人』『アヴァンチュールの相手』の三つのカテゴリーに分かれていた。
「たとえば女優のコレットは『半愛人』であり、他方数年にわたって別れたりくっついたりを繰り返していた美術家で家具デザイナーのエア・ド・リュナックスは『アヴァンチュールの相手』に数えられている。『愛人』クラス――バーネイがもっとも重視していた――に数えられていたのはオリーヴ・カスタンス、ルネ・ヴィヴィアン、エリザベート・ド・グラモン、ロメーヌ・ブルックス、そしてドリー・ワイルドだった。これらの人々のうちもっとも長く関係が続いた三人がド・グラモン、ブルックス、ワイルドである。1927年以降、バーネイはこの三人の女性と同時に交際し、その状態はワイルドの死まで続いた。(中略)
「ワイルドは大酒飲みで、ヘロイン中毒だった。何度か治療を試みたが、成功しなかった。ある療養所から退院した時、彼女は新たに睡眠薬への依存傾向を示しており、当時睡眠薬は処方箋なしで入手可能だった。
「1939年、彼女は乳がんと診断されたが手術を拒み、別の治療法を探し求めた。翌年、ドイツ軍のパリ侵攻に際して、彼女はイギリスへと逃亡した。彼女は1941年に45歳で死んだ。検死官の報告では『変死』となっているが、死因はがんだったかも知れないし、麻薬の過剰摂取だったかも知れない」