魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(最終回)

f:id:eureka0313:20190831192052j:plain

ルネのお墓に飾られた写真。Dr. Tony Shawさんのブログから拝借しました。お許しを。

『ぶしつけな回想』の中で、ナタリー・バーネイはルネが男爵夫人の浮気を見つけて逆上したと書いている。ナタリーは二人の関係が終わったこと、その後ルネの衰弱が速まったことをほのめかしている。ルネ・ヴィヴィアンに関する注の中で、サロモン・レーナックは男爵夫人との関係は1901年から1905年までと断定し、その後については何も記していない。リヴァーズデイル・コラボレーションは1904年までしか続かなかった。われわれはまたルネが晩年、1906年から1909年にかけて、何度か恋をしたことを知っているが、男爵夫人が彼女にとってどの程度まで主たる情人であり続けたのかはわからない。*1*2
はっきりしているのは、1908年までにルネが身も心も病み、その詩が次第に死のテーマに取り憑かれてきたことである。彼女は今日彼女の墓碑銘となっている詩*3を書き、また晩年の詩の多くは死んだヴァイオレット・シリトーの霊に向かって呼びかけている。
コレットによれば、ルネ・ヴィヴィアンはその頃「マスター」と呼ばれる謎の人物とのあまり穏やかでない関係で多忙であった。通常、この「マスター」はやはりファン・ザイレン男爵夫人に擬せられている。
「この『マスター』なる人物が女性の名前で言及されたことはなかった。われわれは何らかの事件によって、この人物の正体が衆人環視の中で暴かれるのを待っていたが、この人物はただ目に見えない使者を通じて、翡翠や、琺瑯や、漆や、繊維製品を送り付けて来るだけであった」(前出『純と不純』)
この「マスター」は気まぐれにルネを呼びつけることがあり、ためにルネはしばしばディナー・パーティを中座しなければならなかった。コレットがある晩「夜会」に出るためにルネの家を訪れたところ、ちょうどルネが出かけるところだった。ルネは説明した「やれやれ、お呼びがかかったのよ。『彼女』は今とても聞き分けがないの」(前出『純と不純』)。別の折、ルネはコレットに「恋人に殺されないうちにパリを離れるつもり」だと語った。
「彼女は自分がどのようにして殺されるかを四つの単語で表現した。わずか四つの単語による、ぎょっとするようなあからさまな表現である。それはここには書くに及ばないとして、彼女はこのように言うのだった。『あのひとの前では、私は嘘をつくことが出来ない。なぜならそんな時、あのひとは私の心臓に耳をくっつけてくるのだから』」(前出『純と不純』)
コレットでさえ、この「マスター」なる人物が実在の女性なのか、ルネの妄想の産物なのかわからないとしている。「マスター」は男爵夫人であったかも知れないし、他の誰かであったかも知れないし、あるいはルネが妄想の中で創り上げた最後の恋人のイメージであったのかも知れない。
その頃のルネはきわめて不幸だった。彼女はもはや飲むばかりで、ほとんど食べなかった。ルネ・ヴィヴィアンは1909年11月18日、慢性化したうつ状態と、アルコールと、飢餓とによって亡くなった。死の床で、彼女はカトリックに改宗した。その数年前、彼女はこのように歌ったばかりだった。


もしも『主』が私の行く手に現れたなら
私はこう言うだろう「おおキリストよ 私はあなたを知らない

「あなたの厳しい掟は私のものではない
私は素朴な異教徒として生きてきた

「私の裸の心のうらおもての無さをご覧下さい
私はあなたを知らない かつて存じ上げた試しがない」(『全詩集』第2巻)


しかし1909年、彼女は親友ヴァイオレットの後を追ってキリスト教徒として夭折したのだった。パッシーにある彼女のお墓は、小さくて華やかなゴシック風のほこらとなっており、たくさんの十字架と、造花と、詩人の肖像が飾られている。
ナタリー・バーネイは1972年2月2日に亡くなった。彼女もまたパッシーに葬られた。彼女のお墓は花壇となっている。バーネイが亡くなる頃、バーネイも、ルネ・ヴィヴィアンも、また彼女たちにリンクした他の女性たちも、先駆者を探し求めるレズビアンフェミニストたちの新しい世代によって既に再発見されていた。

1976年8月 ゲイル・ルービン

*1:原注:ヴィヴィアンの『手をとりあった優しい時間』(1906年)の余白のページに、レーナックは彼女の晩年の完璧な年譜を書き付けている。彼は1908年に三度の情事があったことを指摘している。ジャック・ド・ラクレテルの『空間を越えた愛』(1964年)には1905年から1906年にかけての「さるトルコの貴婦人」宛ての三通のラブレターが収録されている。

*2:訳者注:この「さるトルコの貴婦人」というのはケリメという名のトルコ人女性のことで、このケリメ宛てのルネの恋文10通が『トルコの庭』というタイトルで1982年、ルネの死後70年を経て公刊されて反響を呼び、1998年に『ケリメへの手紙』と改題されて再刊されました。以下、英語版ウィキペディアから引きます。
「まだザイレンとともに暮らしていたころ、ヴィヴィアンはイスタンブールに住むある謎に包まれた愛読者から一通の手紙を受け取った。彼女は名をケリメ・ターカン=パーシャと言い、トルコの外交官の妻であった。これがきっかけとなって二人は非常に情熱的な文通を始め、その後、何度か短時間だけひそかに顔を合わせることとなった。ケリメはフランスで学び、養育されたにもかかわらず、イスラムの風習に従って暮らしていた。語らう友もないまま顔をヴェールで隠し、彼女は自由に旅することも、夫のもとを離れて出歩くこともできなかった。一方、ヴィヴィアンはザイレン男爵夫人との関係を続けていた。1907年、ザイレンは何の前触れもなくヴィヴィアンを捨てて他の女を選び、パリのレズビアン・サークルはたちまちこの噂で持ち切りとなった。激しいショックと屈辱を受けて、ヴィヴィアンは母親と共に日本へ、またハワイへと逃れ、その道中で深刻に健康を害していった。1908年には別の打撃が来た。それはケリメとの別れで、彼女は夫と共にサンクト・ペテルブルグに移り住むこととなったのだった」
ちなみにこのルネとケリメとの恋物語は比較的最近(2007年)映像化されております。題して「ザ・タッチ - 束の間の恋」('The Touch - a short romance')。こちらの記事をご参照ください。

*3:訳者注:拙訳をご参照下さい。