魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(11)

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エレーヌ・ファン・ザイレン男爵夫人。オランダ人の夫エティエンヌ・ファン・ザイレン男爵とともにオランダの古城カスティール・デ・ハールを再建した。またルネ・ヴィヴィアンの死後、私財を投じて「ルネ・ヴィヴィアン賞」を設立した。1970年代「パリにおけるパーティの女王」と称されたマリー・エレーヌ・ド・ロスチャイルド男爵夫人の父方の祖母に当たる。画像は1898年、ACFグランプリに参加し、国際的なモーターレースに出場した史上初の女性ドライバーとなった際のもの。www.elisarolle.comより。

1904年のナタリーとの二度目の破局のあと、ヴィヴィアンの個人史を追跡するのは次第に難しくなる。ルネはみずからのナタリーに対する感情と遂に折り合いをつけたように見える。二人の女はある友情をはぐくむようになったが、それはルネが当初あり得ないとしていた展開だった。1904年以降、ルネはナタリーに対してものわかりがよくなったものの、彼女とはとてもやってはいけないことをも理解したのだった。ルネはこの選択に満足し、それを守ったが、それでも自分の初恋についていつも心残りを覚えていた。コレットが詳述しているある会話の中で、ルネは初恋の人に対する未練を語り、「そしてそれは要するに別の時期に出会った別の女に対する満足と、後悔と、比較の問題であった」(前出『純と不純』)
晩年、ルネは地中海や、中東や、東洋を広く旅した。彼女のアヴェニュー・デュ・ボワ23番地のアパート*1は道中に買い集めた美術工芸品でいっぱいだった。
ロメーヌ・ブルックスは1909年にはルネを知っており*2、その回想録の中でこのアパートを以下のように描写している。
「私の目の前に現われたのは厚いカーテンがかかった暗い部屋で、その沈痛な効果はいささか常軌を逸していた。しかめっ面をした等身大の東洋人たちが椅子にもたれており、それはカーテンのひだに隠れて微光を放っている青白い仏像たちであった。空気は香の薫りで重苦しかった。カーテンが開くと、ルイ16世に扮したルネ・ヴィヴィアンが立っていた。そのまっすぐな金髪は肩に垂れ、その花のような顔は下を向いていた…私たちは東洋式に床に座って昼食を取った。古代ダマスカスの食器に入れて供された貧相な食物はこなごなで、染みだらけだった。食事の間、ルネ・ヴィヴィアンは私たちのもとを離れ、庭から彼女がペットにしている蛙たちを連れて戻ってきた。その手首には一匹の蛇が巻き付いていた」(ジョージ・ウィックスによる引用)
中庭を隔てたところにコレットが住んでいて、ルネと親交を結んだ。彼女はまたこの部屋を以下のように描写している。
「私はそこではほとんど悪漢のごとく邪険にふるまったが、にもかかわらず、このブッダにレディ・アップルをお供えしている痩身の天使の堪忍袋の緒を断ち切ることは出来なかった。ある日、それは春風が大通りのユダの樹から木の葉をむしり取っていたころのこと、私は線香の陰気臭い匂いに吐き気を催し、窓を開けようとした。窓は内側から釘付けで閉め切られていた」(前出『純と不純』)
1905年以降のルネのロマンチックな愛の行方についてはどうもはっきりしない。混乱の何割かは、ファン・ザイレン男爵夫人が不人気であったにもかかわらず、通常は無分別を売り物としている類の出版物が、彼女の個人情報を厳重に保護していたことに起因している。彼女はいつも「ヴァルキーラ」「ラ・ブリオッシュ」「マダム・ド・Z…」などと、本名を伏せて書かれていた。
コレットもまたファン・ザイレン男爵夫人について書いているが、ルネと直接リンクさせてはいない。
「ド・ベルーヌから聞いた話だけれど、あのニースでのお祭りの夜、ファン・ザイレン男爵夫人がボックス席でふんぞり返っていたそうよ。燕尾服に白ネクタイ、おまけに口ひげまでつけてねえ。リコイ男爵夫人がご一緒で、同じように燕尾服姿で、それでもあの象さんのお隣ではとてもやせこけて見えたとか。それと気づいたお客さんたちがひっきりなしにそのボックス席を訪れたけれど、ファン・ザイレン男爵夫人はとても男性的な罵詈雑言で闖入者たちを追っ払っていたそうよ」(レオン・ハンメル宛て書簡、前出『彼女自身の言葉によるコレット伝』より)
ヴィヴィアンと男爵夫人との関係の実際の重要性は今もってわからないが、少なくとも1905年までは、それはルネにとって心癒されるものであった。彼女の最良の作品の多くはこの時期に書かれ、彼女は幸福であったように見える。男爵夫人はルネの詩作を激励し、また彼女たちはポール・リヴァーズデイルという共同ペンネームで二、三冊の詩集をコラボレートした*3。しかし1905年以後、何かが起こった。そして関係は終わったか、変質したのだった。

*1:原注:ヴァイオレット・シリトーは子どものころ、家族とともにアヴェニュー・デュ・ボワ23番地に住んでいた。ルネは1901年に同じ住所の別のアパートに引っ越した。

*2:原注:従って、ロメーヌ・ブルックスは1915年にナタリーと出会う以前にルネと出会っていたのだった。同じ文の中で、ロメーヌはこう書いている。「ルネ・ヴィヴィアンは私によくナタリー・バーネイについて語ったが、その往々にしていかなる論理的説明をも受け付けないところの果てしのない恋の繰り言を聞かされることに私は何の興味も覚えなかった」

*3:原注:レーナックはその注の中で、リヴァーズデイルの詩はそのほとんどが男爵夫人の作であるとしている。エレーヌ・ド・ザイレン・ド・ニーヴェルト男爵夫人は決して自分の名前でレズビアン詩を公表することはなかった。