魔性の血

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続『家康の遠き道』

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岩井三四二作『家康の遠き道』について、一天一笑さんからあらためて詳しい作品紹介をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二『家康の遠き道』光文社を読了して。
この小説は人生の総仕上げの時期を迎え、自らの老いを意識せざるを得なくなった家康が、徳川家の支配を盤石にしょうと死の直前まで苦闘する物語です。西暦では1609年~1616年頃の物語です。家康中心の日本史でいうなら、関ヶ原合戦の約10年後~大阪冬の陣・夏の陣(豊臣家の滅亡)の頃の物語です。そして苦闘する家康に翻弄され、理不尽な運命を辿る人、幸運?ではなくても、まあよしの運命に遭遇する人々の物語です。
また、オランダと同盟国のイギリスは東インド会社を設立し、日本に国王ジェームズ1世の親書を携えてやってきます。スペインも遅れてはならじ、と交易を求めてやってきます。商取引の顧客獲得競争ですかね?

<目次>

地図にはない『遠き道』

増改築なった駿府城に隠居として、九男右兵衛・義直、十男常陸介・頼宜、十一男左衛門・頼房とその母親である数名の側室たちと暮らしている。家康はこの孫・曾孫世代に当たるこの3人の子供を溺愛したらしいです。この時は既に継室のあさひ(豊臣秀吉実妹)は病没しています。家康はその生涯に2妻15妾を持ったと言われていますが、彼女たちは用途?に応じて家康に仕え、側室同士諍いをすることもなく、恙なく暮らしたようです(女性にも適材適所の法則を適用した)。結果、家康は十一男五女に恵まれます。もっとも、家康は長生きなので、この時正室にも側室の多くにも死別し、残った側室は7名です。
家康は真剣に悩み考えます。自分は結果天下人になったが、戦を知らない幼い子供たち・孫の世代に、徳川家の天下を守り切れるのだろうか?徳川家の安泰を守るためにはどのような法度が必要なのか?徳川家以外に過度に富と人望が集中している家はないか?豊臣家にどう対処するか?豊臣恩顧の大名の処遇をどうするか?異国との通商は必要だが、布教活動はいらない(むしろ邪魔である)など項目は多岐に亘ります。これでは、まだまだ若いものには任せてはおけません。これらの難題を一つ一つ、有効な方法をもってクリアしていかなければなりません。気持ちは若くても、人生の持ち時間はもうそこまできています。家康は愛読書の漢書貞観政要』や『吾妻鏡』を参考にして練りに練った計画を時宜を違わず実行に移してその成果を見届けます。
その過程が『家康の遠き道』なのです。勿論この道は地図には記載されていません。
では家康はどのような道、謀略の道をたどるのでしょうか?
この時期の家康は、突出した大名家に日本各地の城普請をさせます。目的は勿論労役を課し、富の放出をさせる為です。該当大名家を疲弊させるためです。彼らは従うしかありません。
富の集中するところに権力が生まれるという考え方に従った政策らしいです。家康の狙う一番の標的は豊臣恩顧の大名、そして依然として大阪城から出ない豊臣秀頼です。

マードレ・デ・デウス号事件と岡本大八事件

異国との関係について、家康の命令に従ってマカオまで伽羅の買い付けに行った有馬修理は、マカオで家臣を殺された因縁のあるポルトガルの提督ペッツアが乗船する武装商船マードレ・デ・デウス号を家康の命令により、焼き討ちし沈没させた手柄を上げます。
このマードレ・デウス号事件に関係した日本側も、家康の家臣同士複雑な人間関係を孕んでいて、後に意外な人事やら事件やらに発展します。
それは2年後の1612年本多上野介(大久保忠隣を追い落とした)が有馬修理からの書状を受けとった事から始まり、誰もが予想できなかった結末を迎えます。所謂岡本大八事件です
有馬修理は、マードレ・デウス号をやっつけた褒美(領地加増)を望み、家康に取り次ぐと言った本田家家臣岡本大八に賄賂(銀)を渡すのですが、その外に、長崎奉行暗殺を企んだ罪状により、結果切腹させられました(生命も富を失って割に合わないですね)。
岡本大八キリシタンである事を隠していたこと、家康の筆跡を真似て加増許可の書状(朱印状)を書いたことなどで、駿河町奉行彦坂久兵衛の命令により拷問にかけられ駿府市内を引き回され、安部川の河原で火あぶりの刑に処されます。『あるじは家康』の大賀弥四郎と同じぐらい惨い死に方です。
これ以後、家康はキリシタンも怖いが、宣教師の後ろにいるポルトガルやスペインはもっと怖いし、自分が平定した日本を乗っ取られるかも。そうしたら竹千代(のちの家光)たちはどうなる?と怖気を振るった家康はキリスト教禁止令を発布し周知徹底させます。

ビスカイノの悲喜劇

この頃、家康の対スペイン政策の転換が原因で、悲喜劇を味わわされたのはスペイン使節ドン・セバスチャン・ピスカイノです。元々、茨木沖で座礁したスペイン船乗組員を家康が救助、保護を命令し、ウイリアム・アダムス作成の船でスペインに送る時に、乗船した商人田中勝介を南蛮船に乗せて浦賀沖に答礼(本当の目的は金銀島の探索)にやって来ました。
家康と秀忠に謁見し、日本各地の港湾の測量と、家康の定めた糸割符制度に縛られない自由な生糸の売買の二つの願いは許可されました。家康の知遇を得て、ビスカイノに便宜を図るよう朱印状(宿泊費も食費も無料です)も得て万事よしの状況だったのですが(生糸の自由売買許可は一見制度に反するようですが、オランダとスペインを、生糸の値段をより安く幕府が買い上げたい目的もあったようです)、当然ですが、全国各地の港湾を測量するには多額の資金が要ります。測量する地域の領主には会見して貴重品の羅紗を進呈します。
武家屋敷以外で寝泊まりをする時は有料です。凡そ20人分ですから、巨額の費用が発生しています。雑費も馬鹿になりません。測量は順調に進みましたが、慢性的な資金難に悩むビスカイノの立場が微妙に悪くなっていきました。彼の目的は日本近海にある金銀島を発見探索することだとの噂が流れます。測量している間に岡本大八事件が起きているので、キリシタンのビスカイノの立場は当然悪くなります。家康は今までの優遇措置をしません。面会もしません。手のひら返しです。周囲も冷たいです。仕方がないので、ビスカイノは自分の銀食器を売り払って、売れ残った積荷は捨てて、浦賀から帰路に出港します(金銀島を経由して)。
しかし、海図にあるはずの金銀島は発見できず、嵐に遭遇し、ほうほうの体で2月後、また浦賀に戻ります。船は破損する、資金は底を尽く。途方にくれ、病気になったビスカイノを救ったのは伊達政宗でした。伊達藩は熟錬船員募集中でした。国王の使節として最高司令官として来日したビスカイノが、一船客(ただの人)として帰国するのです。屈辱でしょうが異国の地で果てたくなければ応じるしかありません。ビスカイノも家康の政策転換に振り回された一人でした。何とも涙ぐましいですが、命があるだけよしとしましょうか。

岡本大八事件の波紋

岡本大八事件は様々な波紋を広げます。側近の本多家中にキリシタンがいたのですから、一層キリシタンへの憎しみというか、宣教師や神父をのさばらせたら、我が子孫は絶やされてしまうとの恐怖はつのるのですが、これは家康自身以外には理解できないでしょう。
家康は岡本大八事件の調べのなかで、宣教師と文をやり取りしていた、大久保長安をどう罰するか本多父子と策謀を進めます。大久保長安金春流の猿楽師の息子でしたが、縁あって武田家家臣となり、その後は徳川家家臣となり、金堀とか、金銀山の開発(佐渡・岩見など)に成功し奉行にもなります。有能ですがそれゆえ、憎まれます。大久保長安本人は病没するのですが、家宅捜索の結果、金の流用や謀反の証拠がでたとし、子供たち男子5名を切腹させます。女子の嫁ぎ先も処罰します(男系を絶って後顧の憂いを絶ちます)。
大久保長安自身は功労者なので処罰は出来ませんでした。この延長線上に『あるじは家康』の大久保忠隣がいます。大久保忠隣は大久保一族の棟梁です、家康がこの機会を見逃すわけがありません。槍働きが主で融通の利かない、そろそろ扱いにくくなった大久保忠隣を近江に配流に処します。勿論本多父子と示し合わせてです。本多佐度の守と大久保忠隣は、時代劇で、二人背中合わせで敵と斬り合うが敵がいなくなったら、仲違いする間柄です。
そしてこの二人は豊臣家に対する考えも違います。時流を読む本多佐渡は天下人家康と行動し、頑固な大久保忠隣は豊臣家が主筋だから、家康の天下は預かりだと直言して、家康に疎まれます。
大久保忠隣はこの無理筋な配流には無抵抗に従いますが、『あるじは家康』に出で来るように骨の髄まで家康を憎み続けます。

大阪冬の陣・夏の陣

家康は今や誰にも憚ることのない天下人ですが、それが解らない大阪城の秀頼と淀殿の処遇を段階的に行います。
先ずは二条城にて秀頼と会見して、その人となりを自分で確かめます(孫の千姫が秀頼と結婚しているので、会見理由は何とでも作れます。孫の婿にあたる)。家康はこの会見で、豊臣方の時流の読めなさに唖然とし、呆れもし、又京都の人々の豊臣人気にも着目し危機感を感じます。加藤清正等の豊臣恩顧の大名が秀頼の身辺警護をしているのを見て、「遅くなるとおふくろ様が心配されるだろう」の台詞と共に、会見後の食事の膳の数を予定より減らさせます。この辺りは流石に家康です。時間とお金の使い方がわかっています。
淀殿と家忠の妻は姉妹(浅井三姉妹織田信長の姪)なので、女同士のチャンネルもあるのですが、如何せん淀殿の「天下は豊臣家のもの」の考え方は変わりません。家康も当てにはしていません。家康は大阪城の女房衆に、キリシタンが少なからずいることも掴みます。
後は家康の計略の知恵の見せ所です。戦国時代を勝ち抜いてきた家康にのみ、立案・実行・命令が出来ます。勿論家臣たちを用途に分けて大いに使います。感傷などないです。まず、淀殿の信仰心の厚さに目をつけて、大仏建立を勧めます。「亡き太閤殿下のため」が殺し文句です。結果豊臣家は多額の金銀を放出することになりました。
富が無ければ武器を買えません。また家康はこの頃、ウィリアム・アダムスを通じてエグレス(?)から射程距離の長いカルバリン砲五門と弾薬を買います(試射が成功したら買い上げるのはさすが家康です)。この前後に、加藤清正が突然亡くなりました。前田利家は既に亡くなっています。
家康にとっては、天の時がやってきます。長生きはするものです。人生の総仕上げをして、神になるのです。神になって、子孫が栄えるように睨みを利かすのです(日光東照宮)。
時は有名な大阪の冬の陣そして夏の陣に流れてゆきます。この久々の戦に家康は自ら他の誰よりも生き生きと出陣します。夏の陣の時、家康は自ら総大将を務めます。無論この間にも、豊臣家には和議の使者を送り、「秀頼母子が大阪城を出て、こちらの条件をのむなら戦はしない」との口上を述べさせるのですが、豊臣方の返事はありません。
家康がいざ出陣となると、戦の経験の無い子供や孫世代ばかりです。若い頃一緒に伊賀越えをした、本多平八郎・酒井忠次石川数正は20年以上前に他界している。家康より若い榊原康政井伊直政も既に死んでいます。この世に残った家康は何時にない寂寞とした感情が沸き起こりますが、さすが家康は自分が長生きの意義意味を新たに思いめぐらせ、豊臣を叩き潰す気持ちを高めます。夏の陣は戦力から言って勝って当たり前の戦いですが、戦慣れしている家康には、周囲の連中の動きがもどかしくてなりません。
程なく大阪城は落城して、主だった武将の首を刎ね、更には、秀頼の庶子8歳の国松を六条河原で斬首します(わざと衆人環視の状況を作ります)。
後は、秀吉を祀る豊国神社を取り壊し、朝廷と相談し豊国大明神の神号を廃止します。
これ以後、家康は朝廷には禁中並公家諸法度、大名や旗本には武家諸法度を作り明文化します。僧侶には僧侶の法度を作ります。明文化するに際し、きつい罰則規定を設けます。これで日本史の教科書に、記載されている幕府の体制が全て整いました。

神への道を登り詰めた家康

やがて病を得た家康は、神になるため最後の仕掛けをします。自分の死後の自分の取り扱いです。吉田神道の権威の梵舜に葬儀を取り仕切らせ、遺骸は久能山におさめ、法会は江戸増上寺で行い、位牌は岡崎の大樹寺におき、一周忌ののち、日光にお堂を建てる。このお堂に徳川家の守護神として永遠に存在する運びとなりました。
その他家康は自分自身を神として、祀られるように、実に事細かな工夫をします。
ここには書ききれませんが、そこまでする?という程です。
実際、そののち大奥の身分のある人が行列をつくり、増上寺をお参りする習慣ができます。
そうして、家康にしか判らない『遠き道』を完成させ、1616年4月17日息を引き取ります。

家康が天下を取れたのも、漢書の『六韜』や『貞観政要』を読み込めたからです。その素養は駿府の人質時代に今川義元の軍師、太源雪斎の薫陶を受けた事から始まります。
息を引き取る前に少しは今川家に感謝の念を感じたのでしょうか?
江戸幕府は数え切れない、多くの人の命の上に築かれた現実を振り返ったでしょうか?

家康が本当にサイコパスだったならば、どうでしょう。

虚々実々の権謀術数、大きなプロジェクトを立ち上げる方、組織の中の人間関係に懊悩する方にお勧めします。

天一


*一天一笑さんによる『家康の遠き道』の前回のレビューはこちら

家康の遠き道

家康の遠き道