表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
伊東潤『家康謀殺』(角川書店)を読了して。
本書は、1560年(永禄3年)~1615年(慶長20年)の日本を舞台にした珠玉の短編小説を纏めた一冊です。
対象の時代は、1560年“桶狭間の戦い”から始まり、織田信長に仕える木下藤吉郎が頭角を現す前から、そして本能寺の変、関ヶ原合戦を経て、1615年大坂夏の陣、豊臣家滅亡までの時期です。この物語の構成と登場人物は、沓掛城主近藤景春の娘婿、佐川景春に視点を当てた“雑説扱い難く候”、関白の地位に懊悩する豊臣秀次“上意に候”、明の敵将を討つ使命を帯びた鉄砲の根来衆”秀吉の刺客“、毛利家の行方に懊悩する吉川広家“陥穽”、家康の道中を狙う名もなき刺客”家康謀殺“、敗色濃い大坂城に籠る速水甲斐守久“大忠の男”の6篇です。
<目次>
雑説扱い難く候
桶狭間の戦いの前、沓掛城主近藤景春の命によって、娘婿の佐川景春は、今川家が間違いなく勝つために、簗田広正を裏切らせる策を講じるも調略出来ず、人質の実妹は死亡し家は没落する。牢人となり、願証寺に入ったのち、1573年頃、織田軍による長島の一向一揆から逃げ延びた景春は、奇しくも簗田広正が加賀大聖寺城城主となって、雑説(情報工作)を上手く使えば出世は思いのままになると嘯いていることを知り、報復を試みる。情報には偽情報をもって相手を死地に追いやる。一介の物頭と大聖寺城主の対決。生き残った簗田広正のその後の運命は?情報戦に勝者と敗者はあるのでしょうか?お楽しみください。
ここに出てくる加賀一向一揆は、岩井三四二『おくうたま』の浅井喜十郎も参戦して負け戦を体験します。
上意に候
1591年、豊臣秀頼と淀殿の間にお拾い(秀頼)が生まれたことにより、熱海の湯治場で人知れずホッとする秀次(秀吉の実姉智と弥助の長男)に、ある日秀吉の宿老家康の片腕の酒井左衛門忠次が湯治を装ってやってきます。用件は、秀吉と秀次の間に溝を作らないように、秀次自ら関白返上を申し出る事を奨めます。これは、勿論秀吉が返上に及ばずと表明するのを見越しての作戦です。この頃の秀吉は土地に価値を見出し、唐入り(慶長・文禄の役)を敢行し、とても正気とは思えません。気鬱の病の虫に取りつかれている秀次は、迷い即断できません。4歳の頃浅井家家臣宮部継潤の養子になったのを皮切りに、その時の時勢により、品物のように扱われた自分の人生を虚しく回想します。其処を見透かしたように、側近の木村日常陸之介重玆が、囁きます。「もしあなたが関白返上を上申したら、秀吉は受け入れるでしょう。そしたら後釜には羽柴秀俊(金吾中納言)が収まるでしょう」それは更に秀頼に万が一あれば関白の座が正室寧々の血縁者の金吾に渡る事を意味しています。秀次にとっては一番我慢ならないことです。叔父太閤の血縁者故に余所目には恵まれているように見えても、困難な人生を歩んでいる、それが無駄になる。酒井忠次を信じていいものか?
鬱屈する秀次に常陸之介は、秀吉に秀次の武辺ぶりを見せるために比叡山での鹿狩と酒宴を提案します。実は、比叡山延暦寺は朝廷の神域で女人禁制です。それだけではなく、秀次の側室39人(駒姫もいます)を聚楽第に住まわせます。果ては、後陽成天皇の侍医の曲直瀬玄朔(曲直瀬道三の養子)を喘息の持病のある秀次のお抱え医師にしてしまいます。これらは全て「秀次の権威の確立」の為らしいのですが、差支えないのでしょうか?そうこするうちに又酒井忠次がやってきますが、表情険しく、石田三成の密命を受けた常陸之介の謀略にはまり、秀吉と朝廷の心証悪くご覚悟の程を(もはや打開策は無い)と話をして早々に帰ってゆきます。
やがて秀次は高野山に追放されます。人生の最後に切腹の時期を自分で早めます。唯一自分で決めた事です。「上意に候」の声を聴く前に。かくして秀次切腹と39人の側室の処刑をもって、豊臣家滅亡の扉を開きます。側室39人の処刑については竹内涼『駒姫-三条河原異聞』もお読みくださると嬉しいです。
秀吉の刺客
文禄の役の後、慶長の役(1597年)に入る直前、戦果が上がらず焦る秀吉は、朝鮮の将軍李舜臣を一年以内に暗殺するように、鉄砲の名人根来衆の陣僧玄妙と玄照の兄弟に命令。
当時の根来寺に秀吉の命令に逆らう力はありません。根来寺の再起のために、兄玄照は偽降倭となり、高麗国へ行き李瞬臣暗殺を謀る。喘息の持病がある弟玄妙は大坂城に入り人質となる運命を背負います。果たして首尾は如何に?
厳しい身分制度が保たれている当時の高麗国で、鉄砲の腕を高馬進に見いだされた玄照は、標的の李瞬臣とも直に会話をするようになります。李瞬臣の人柄や戦に対する考えを知るに連れて、狙撃できるのか迷いが出てきます。歴戦の将、李瞬臣は玄照の正体に見当をつけると、自分が手配するからと日本への帰国を促します。懐かしい祖国へ帰還するか(秀吉は重病の状態)?兄弟は再び会えるのでしょうか?小西行長や加藤清正も出てきます。残酷な運命に自分の腕を信じて立ち向かう根来衆の物語、お楽しみください。
陥穽
1598年9月、豊臣秀吉の没後、徳川家康と、毛利家随一の頭脳をもつ吉川広家(吉川元春の3男)との徳川伏見屋敷での会談から始まります。家老本多正信が同席します。用件は家康らしいです。
秀吉没を機に秀頼に逆らう輩がいないか、毛利家が偽りの謀反を起こして同調者がいるがどうか探ってくれ。これだけでは持ち帰り宗家輝元をはじめ皆と相談するというのですが、そこは抜け目の無い家康です。毛利家の中では家臣ではないが、議決権のない微妙な立場の広家に心理戦を展開します。目の付け所、揺さぶり方はさすが家康です。毛利家の「3本の矢」の教えも代替わりをすると、自然淘汰されてしまいます。又宗家の輝元は誰より安国寺恵瓊の言葉を信用します。結局広家は“内府の命に従うことで相違なし”の文言のもと起請文を取り交わします。これ以後豊臣家の外交窓口は黒田甲斐守長政(黒田如水の息子)と決まってしまいます。毛利家はバラバラのまま、誰が誰と通じているのか判然としないまま、佐和山謀議から関ヶ原合戦へと突入します。
岩井三四二『天命』の後日談としてもお楽しみください。
家康謀殺
駿府城から大坂に向けて出陣する家康の輿丁(輿を担ぐ人)の伊賀者の吉蔵(防諜活動も担当する)が、家康の警護隊長永井直勝から呼び出され、家康の輿丁に内通者や暗殺者がいるらしい、それが誰か突き止めてほしいとの命令を受ける。更に大坂への道中で家康殺害を決行するかもしれない、断固防いでくれです(大坂方の大野治長の回し者の可能性あり)。
家康の周囲には常に馬の口取り、草履取り、鷹匠、槍持ち、鋏箱持ちなどが沢山いますがいずれも身元調査済みです。四人いる輿丁頭の角右衛門、法善坊、与一そして吉蔵、補助要員の舞師の天十郎。このうちの誰が暗殺者なのでしょうか?家康一行は駿府城から、大坂城へ向けて東海道を西に進みます。東海道の難所、大井川の渡河。元修験者の怪力を活かす法善坊は暗殺者ではなさそうです。金谷・掛川宿、浜名湖舞阪宿の今切(浜松城に一泊します。松並木での狙撃)、赤坂宿を経て、熱田神宮での奉納舞。神事太夫の屋号に恥じない舞を奉納することで頭が一杯の天十郎も暗殺者ではなさそうですが。
あっと驚く結末。戦国時代の名もなき人々の生き方、家康の自分に仕える人々に対する処遇、とりわけ人盾となって家康を守った与一の遺族への計らいも見事です。
伊東潤『峠越え』と併せてお読み頂いだくと、一層面白いかもしれません。
人は思わぬ所で恨まれる事がある。警護隊長永井直勝と吉蔵の対決も見ものです。
余談ですが、東海地方出身の筆者には懐かしい地名が沢山出てきました。又俗揺の「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」が社会科の授業に出てきた事も懐かしく思い出しました。
大忠の男
大坂夏の陣に突入する直前、片桐且元が大坂城を出て、淀殿の居室までガルバリン砲?の砲撃が届くようになり、淀殿が和議に応じる姿勢を見せ始めたころの、滅ぶべくして滅んだ豊臣家の物語です。土豪の息子だった守久は、秀吉によって見いだされ、黄母衣衆となり、大坂城七手組頭(秀吉の身辺警護)にまでに上り詰めた。天下人ではなくても豊臣家存続を願う”忠義専一の士“(不器用者)と呼ばれた速水甲斐守久の物語です。大坂城が裸城になっても、尚自分の血縁に繋がる者を信じる淀殿と、物事を自分に都合よく考える癖のついている大野治長。どうやっても報われない状況で、忠義の男が執った滅び方とは。
徳川方の岡山陣での秀忠との和睦交渉の様子、茶人武将古田織部との「露滴庵」での密談。大御所のいる二条城に火をつける案は無辜の民が犠牲になる。どう行動するのが亡き秀吉の心にかなうのか?
古田織部とは利休門下で相弟子だった織田有楽斎も出てきます。決して凡庸ではない秀忠も出できます。古田織部の最後や、大坂夏の陣の道明寺・誉田合戦の模様。絶望的な状況にも関わらず、勇猛果敢に奮戦する大坂七手組、伊東長実、掘田盛重、青木一重、郡宗保、野々村雅春、中嶋氏胤、真野頼包の活躍をお楽しみください。
先にご紹介した『決戦!大坂城』『大坂の陣』と読み比べてみても面白いかも知れません。
徳川家康・秀忠父子、豊臣秀頼・淀殿母子、古田織部や秀吉の明征伐、戦国時代全般に興味のある方にぜひお薦めします。
一天一笑