魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

サラ・ウォーターズ作『荊の城』

サラ・ウォーターズ作『荊の城』(原題『指職人』、中村有希訳、創元推理文庫)を読む。
この小説、だいぶ前にとわのさくやこ様から薦められ、機会があれば(と言うのはつまり、近所の古本屋で見かけたら)読んでみたいと思っていたものですが、先日その「機会」がようやく訪れました。まずはさくやこ様に厚く御礼を申し上げます。非常に面白い小説でした。
で、この小説を皆様にお薦めしようということで、少し内容をご紹介するわけですが、この小説のようなサスペンス系の作品の場合、すなわち真相の裏に真相が隠れており、どんでん返しに次ぐどんでん返しといった展開を見せる作品の場合、やはりネタバレは厳禁と思われますので、できるだけ漠然と、未読の方の好奇心をそがない程度に、ごく一部分だけご紹介したいと思います。

時は1862年、舞台はロンドンで、その下町ラント街と、郊外のブライア城というところを行ったり来たりします。ちなみに邦題の『荊の城』というのは、この「ブライア」(「野いばら」の意)にひっかけた単なる洒落のようで、別に城がいばらに囲まれているわけではありません。上に示したとおり、原題は『指職人』、すなわち「すり」「こそ泥」の意です。
話の筋のかなめを握っているのは『紳士』と呼ばれる二十八歳のハンサムな青年実業家――ではなくて青年詐欺師で、ある人物との共謀のもとに、共に十七歳だがかなりかけ離れた環境に育った二人の少女、スーザンとモードとをあやつって、莫大な財産と社会的地位を手に入れるという恐ろしい計画を立て、これを実行に移す、という内容です。この若者(同性愛者らしい)の手によって翻弄される二人の少女の運命や如何に?というわけで、あまりにもお先真っ暗な展開に時おり読み続けるのがつらくなったりもしましたが、彼女たちが最後はどうなってしまうのかとても気になり、結局猛スピードで読み終えてしまいました。おかげで寝不足となり、当ブログの更新スケジュールに支障を来たしました。

以下にいくつかのパッセージを引用します。妻が近所の図書館で原書を借りてきてくれましたので、この中から少しだけ訳してお目にかけましょう。ちなみに翻訳権を独占している創元推理文庫版ですが、佳い訳だと思いますが、必ずしも原文に忠実とは言えないようです。
まずは冒頭、スーの独白で、自分の生みの親(名前は不明)と育ての親(サクスビー夫人)について語るところ。

…「おい、スーザン・トリンダーだぜ」とささやく声がすることもあった。「あいつのお袋も殺しで吊るされたんだ。あいつ、強いな」
そんな風に言われて、悪い気はしなかった。誰だってそうだろう。だけどほんとは――今なら正直に言えるが――私はぜんぜん強くなかった。そもそもこのようなことがらについて強くなるには、まず初めに悲しみを経験していなければならないだろう。そして顔も知らない赤の他人も同然の人のことで、どうやって悲しむことが出来るだろうか。…(中略)…母が私を孤児にしたことは悲しむべきことかも知れない――しかし私が知っている女の子たちのうちには母親が飲んだくれだったり、頭が変だったりした子もいたのである。そんな子たちはみな母親が大嫌いで、決して仲よくなんかできなかった。母親がそんなのでなくてよかった。母親が死んでいてくれてよかった。
そうしてサクスビー夫人でよかった。夫人は実の親よりずっと優しかった。夫人は一ヶ月分の子守り代をもらっただけで、十七年間も私を育ててくれたんだ。これこそほんとの愛ってものさ…

ネットで当たってみると、この小説を「レズビアンもの」に分類している人もいるようですが、それはこの小説の中心的なテーマではないと私は思いますが、確かにそういう要素もあります。特に前半の、スーザンがモードお嬢様の新しいメイドとしてブライア城に潜り込んでからの二人の関係は、「女主人とメイドとの禁断の愛」の話は前にもしたような気もするし、しなかったような気もしますが、これはまさに「深窓の令嬢とメイドとの禁断の愛」の物語で、それも典型的と言うか、模範的と言うか、その王道を行く観のあるものです。わけのわからんことを言っているようですが、あんまり王道過ぎて、いま読み返しても感涙と同時に失笑を禁じ得ません。
はじめて会った時のスーから見たモードの印象。

…私も若く見られる方だったが、この場合――と言うのはつまり、いま私の目の前に立っているモード・リリーをじっくり眺めた上で、なおかつ私を若いという人がいたら、面白かったろう。私が少女であるとすれば、彼女は幼女であり、ガキであり、何にも知らない小鳩ちゃんであった。…(中略)…彼女は言った。「スミスさん、スミスさんね。ロンドンから来て、私のメイドを務めて下さる方ね。スーザンと呼んでもかまわないかしら…(中略)…」彼女は頬を真赤に染めたまま、顔を伏せ、ほとんど私の方を見もしないで、こんなことを優しく、甘い声で、つっかえながら話した…

この小説は全編にわたって女性の独白体で書かれておりますが、スーザンが語っている部分と、モードが語っている部分とがあります。小説が複数の登場人物の独白体で書かれるのは珍しいことではないが、作者はこの手法をまことに巧妙に用いている。同じ一つの事件でも、スーザンが語るのとモードが語るのとでは、物の表と裏を見るようで、かなりショックを受けます。
ある日、城の近くを散歩するくだんの青年詐欺師とモードについて歩いていたスーザンは、遂に「決定的瞬間」を目撃したと信じますが、モードの側から見たその真相。

…彼の唇を手首に感じて、私は引っ込めようとする。「ほらほら」と彼は言う。「いい子にしてな、ちょっとの間だからよ。ひげづらで悪いね。僕の唇を彼女の唇だと思ってくれ」言葉が肌にべとつく。彼は私の手袋を少しずらし、唇を開いて、その舌先で私の手のひらに触れる。私は身ぶるいする、力が抜け、怖くて、気持ち悪くて――めまいがして。そうしてスーが立っていて、私たちが愛し合っていると思い込んで満足げに見守っているのを私は知っている…

後半は本当に気が滅入るようなシーンが多く、たとえばマッド・ハウスに監禁されたスーザンが、夜中に酒盛りをしている看護婦たちから暴行を受けるシーンなど、ただただおぞましいばかりでしたが、作者の筆力にはかないませんで、読み飛ばすこともできませんでした。
クライマックスの修羅場。

…デインティが私の後について、イッブズ旦那の店から駆け込んできた。
「あいつはどこよ」彼女は叫んで、拳骨を作ると、チャールズを押しのけ、私を見、そして足を踏み鳴らした。「よくもしゃあしゃあとこの家に帰って来れたもんだね、この売女。サクスビーさんは断腸の思いをしたんだよ」
「近寄らないで」私はナイフを振りかざして見せた。彼女は目を丸くして、あとずさりした。…(中略)…
「サクスビーさん」私は夫人の方を向いて言った。「あたしははめられたんだ。あたしは決して――あいつらに――あの男と女に――閉じ込められたんだよ。それからずっと――五月からずっと――帰って来れなかったんだ」…(中略)…
「おまえ」サクスビー夫人がもう一度言った。
けれど私はモードを見た。彼女は私を見ても、他のみんなのように、あとずさりしたり、飛び上がったりしなかった。ただ――ちょうどサクスビー夫人と同じように――胸に手を当てていた。彼女はバーロウの女の子みたいななりをしていたが、その顔は明かりのかげになって、その目は闇に隠れていた――彼女は美しく、毅然としているように見えた。しかしその手は震えていた。
「震えてるね」私はそれを見て言った。「いい気味だ」
彼女は動じなかった。「スー、あなたはここに来ない方がよかった」彼女は言った。「あなたはここに来てはいけなかったのよ」
「そうだろうよ」私は怒鳴った。彼女の声は澄んでいて甘く、私はマッド・ハウスでその声を夢に見たことを思い出した。「そうだろうよ、この嘘つき女、蛇女、まむし女」
「女の喧嘩かよ」ジョンがわめいて、手を叩いた…

エンディング。

…彼女は動かなかった。完全に静止していた。彼女は叫び声も上げず、最初はひとことも口をきかなかった。ただ私の目を見つめたまま座って、その顔に驚愕の表情を浮かべていた。私は一歩前に出た。すると彼女は立ち上がり、インクの付いたままのペンが書類と机の上を転がって、床に落ちた。彼女の顔は蒼白になった。椅子の背を握りしめ、それはあたかもその手を離せば倒れるか、失神するとでも言いたげな様子だった。私がもう一歩前に出ると、その手にさらに力がこもった。
「私を」と彼女は言った。「殺しに来たのね」…

以上、面白そうだと思われた方は、是非お読み下さい。自信をもってお薦めします。