魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

千野境子『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』

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岩松院 『八方睨み鳳凰図』は北斎最大の作品。ウィキメディア・コモンズより。

表題のノンフィクションにつきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

千野境子ちのけいこ『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)を読了して。
現在、産経新聞客員論説委員を務める千野境子が、北斎晩年の名画、信州・小布施おぶせの東町祭屋台の天井絵や、岩松院がんしょういん本堂の天井絵を取材して、かつて新聞記者だった自分と重ね合わせ、関係文献を読み込み、当時としては超長命の北斎が生きた時代の動きなども捉えながら、北斎の人となりや家族関係を丁寧に熱意をこめて書き著した、精度の高い北斎入門書です。
江戸時代にジャーナリストとの言葉はありませんでしたが、著者はジャーナリストに必須の“鳥の目・虫の目”をもった写実主義者として、浮世絵師の枠内にとどまらない北斎の縦横無尽の活躍ぶりを年代ごとにトレースしていきます。
2021年2月~4月、東京都墨田区すみだ北斎美術館で開催された「筆魂 線の引力・色の魔力 ―又兵衛から北斎・国芳まで―」には北斎の新しく発見された絵が出品されました。
北斎をめぐるニュースは現在でも人々の耳目を集めます。*1

少年時代

北斎は十歳前後で貸本屋の小僧として働き始めます。当時としてはさして珍しいことではありません。そして十四歳前後で、彫師について、木版印刷の版木の文字彫も始めています。
この少年時代の経験は、後年浮世絵を描く時、山東京伝さんとうきょうでん黄表紙本の挿絵を描く時、馬琴の『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』の挿絵を描く時に大いに役立ったことでしょう(大衆・町人の好みが肌でわかる、読み書き能力も鍛えることができる)。

引っ越し魔

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勝川春章『雪月花』。ウィキメディア・コモンズより。

引っ越し魔の北斎はエピソードには事欠きません。しかし、自分自身の絵に対しては、生きている限り倦むことなく、精進を継続しました。周囲に理解されずとも前進あるのみ。なので画号もかなり頻繁に変わりました。
1779年、勝川春章に弟子入りして、翌年、勝川春朗(初代)名義で出発します。1794年に破門され、俵屋宗理(二代目)を名乗ることが許されます。しかし、1799年に北斎辰政ときまさを名乗り、画風も一変させます(描くために長寿を願っての説もあり)。
1806年、北斎を名乗り、『新編水滸画伝』の挿絵を描き、読本『椿説弓張月』の挿絵を描きます。滝沢馬琴と協力関係を築き、ロングセラーとなりますが、後に見解の相違で馬琴とは決裂します。お互いに妥協しませんね。
1810年、戴斗たいと(初代)を名乗る頃には、弟子が200人程になっていました。
1820年、還暦を前に、為一いいつを名乗ります。
1831年、「富嶽三十六景」を発表。
天保の飢饉。1833年、三浦屋八衛門と偽り、浦賀に隠れ住む。
1834年、「冨獄百景」を発表、画狂老人まんじを名乗ります。
1842年に水野忠邦による天保の改革(倹約令発令)を避けるように小布施に逗留します。小布施には都合4度訪れ、各所の天井絵を完成させます。
1849年、遍照院(東京都台東区浅草6丁目)境内の長屋で没します。
絵画に取り憑かれながらも、時代の流れに巻き込まれず、画業を全うしました。

娘・お栄(葛飾応為)の存在

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葛飾応為『三曲合奏図』。ウィキメディア・コモンズより。

澤田瞳子の『星落ちて、なお』の中に、河鍋とよの異母兄・周三郎の「北斎になりたかった親父は、お前にも北斎の娘の役を望んだ」とのセリフがありますが、これは北斎の三女のお栄のことを示していると思われます。
お栄は絵師・南沢等明とうめいに一度嫁ぐも、離縁して戻って来てからは、北斎と起居を共にし、画業では有能なアシスタントで、応為の画号を名乗っていました。北斎晩年の信州・小布施の天井絵は、応為の助力がなければ、出来上がらなかったと思われます。応為の落款の絵は極僅かです。生涯に九十三回引っ越したといわれる“引っ越し魔”北斎にとって、お栄は欠くことのできない人材だったのでしょう(勿論、信州に招いてくれた高井鴻山の存在が一番ですが)。
弊衣へいい粗食を旨とし、売れっ子画家にしては赤貧洗うがごとき暮らしをしていた北斎と共に過ごすのは、お栄にとって、諦めか生き甲斐か、どちらだったでしょうか?

シ-ボルト事件

オランダ商館の医務官として着任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは植物学者でもあり、日本の民俗学的コレクションを5000点以上、国外に持ち出しました。鳥類・哺乳類・爬虫類の標本。植物標本も一万点以上持ち出しました(プラント・ハンターでもしていたのですかね?)。その中に、幕末に売れた『北斎漫画』の資料もかなりの数含まれていました。
幕府が持ち出し禁止にしていた日本地図を持ち出し、返却に応じなかったので、スパイ容疑をかけられ、国外追放処分を受けます。
この為、シーボルトが再来日できたのは、1858年、日蘭修好通商条約が結ばれ、追放令が取り消されてからの事でした。
オランダに帰国したシーボルトは、オランダ政府に叙勲され、オランダ領東インド陸軍参謀本部付きとして、日本関係の仕事に就きました。

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シーボルトが愛した遊女お滝。二人の間に生まれた娘イネは西洋医学を習得した日本最初の産婦人科医。

ロシアにおける北斎

1844年、海軍学校を卒業した海軍士官セルゲイ・キターエフは、浮世絵に興味を示し、帝政ロシアに持ち帰ります。太平洋航路が勤務だったので、船が入港すると、版画や浮世絵を買い集めました。
ロシア革命後、ソ連に保管されていましたが、1966年、ヴォロノワ学芸員の尽力により、プーシュキン美術館で、初の葛飾北斎展が開かれ、日の目を見ます(日ソ共催)。

こうして弛まぬ探求心をもった北斎の絵は、ジャポニズムの華として、世界各国の展覧会の目玉となり、来館者を満足させたのでした。
時代の波に呑まれず、画業に打ち込んだ北斎と、ジャポニズムに惹かれ、北斎コレクターとなった人々の物語をお楽しみください。
天一


映画「HOKUSAI」予告編。
www.youtube.com