魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

高橋直樹「非命に斃る」(『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』より)

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源頼家筆「般若心経」。1203年9月16日、頼家が病の平癒を祈念して写経し静岡県三嶋大社に奉納したもの。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


高橋直樹「非命にたおる」( PHP文芸文庫『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』所収)を読了して。
源頼朝北条政子の間に生まれた長男・頼家の誕生から死までの物語です。
1182年~1204年頃、平安時代末期~鎌倉幕府創成期の物語です。京・朝廷と東国の武家との政治的な駆け引きや陰謀が繰り広げられた時代でもあります。
1182年8月、頼家は、征夷大将軍源頼朝正室北条政子の待望の嫡子として誕生した。
頼朝は政子の安産祈願のために、鶴ヶ岡八幡宮の参道の整備をする。頼朝自ら現場監督を務めて、御家人に石や砂を運ばせた。こうして“段葛だんかずら”と呼ばれる参道が出来上がり、現在も残っている。
筆者は、頼朝の目的は、御家人たちの忠誠を試すとことと「鎌倉幕府ここにあり」をデモンストレートすることにあったと思う。
いずれにせよ、頼家は生まれながらの“鎌倉殿”だった。
武家の作法に則り、男子誕生の鳴弦めいげんを三度行い、鏑矢かぶらや上総介かずさのすけ広常がその役割を担った。
比企尼ひきのあまの次女が乳をつけ、護刀や馬も献上された。
千葉介ちばのすけ常胤が、七夜の儀を沙汰した。六人の子息と共に白の水干姿をもって“若公わかぎみの御鎧でござる”と誂えた馬、弓矢、剣を披露した。これには頼朝も感激した。
まさに征夷大将軍の嫡子にふさわしい慶事であった。
この時点では、後年の伊豆・修禅寺しゅぜんじでの理不尽な死の予兆さえなかった。

頼家の運命が画期的に変化したのは18歳の時、1199年1月、父・頼朝が急逝した時からだった(北条家による謀殺との説もあります)。頼家は、幼名の万寿から元服し、頼家と名乗りを替え、征夷大将軍世襲した。しかしながら、頼朝急逝後、直ぐに鎌倉は世情不安となり、“三左衛門さんさえもんの変”が起きた。大江広元北条義時二名の協議の結果、中原親能ちかよしが京・朝廷に使者として赴き、変事を収めた。

武芸に秀でた若干十八歳の頼家は、気性が荒く癇癪持ちで、こらえ性も持ち合わせていなかった(ほぼ矯正不可能)。訴状を熟読することなく、訴人そにん金壺眼かなつぼまなこに嫌気がさし、訴人を追い返した。泣き寝入りをしたくない訴人は尼御台・北条政子に泣きつく。
これに懲りた政子は、頼家の直截権停止を実施し、合議制を導入する。こうして
鎌倉の十三人が誕生する。メンバーは、北条時政北条義時大江広元、三好善信、中原親能、三浦義澄、八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政である。これにより頼家は面子が丸潰れとなり、更に荒んだ行動に出る。
安達弥九郎を三河国追捕使ついぶしとして派遣させ、其の隙に安達弥九郎が贔屓にしている白拍子を強奪しようと試み、実行した。こともあろうに征夷大将軍が私情をもって、安達弥九郎景盛の追討令を出した。甲冑姿の頼家を見た梶原景時は絶望的な目の色をして言った。
「御所、理由の是非はともかく、一旦兵を出した以上は必ず安達父子の首を御取りください」
「言われるまでもない、そうせねば将軍の面目が立たない」
しかし、母・政子(尼御台)が先に甘縄の安達藤九郎盛長邸に陣取り、「安達邸を攻めるなら、この母を最初に射殺しなさい」との使いを出した。たまらず頼家は兵を引き上げる。

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鎌倉最古の神社、甘縄神明神社の拝殿に続く石段。ウィキメディア・コモンズより。

又義時の三男(?)北条五郎時房は、ある目的をもって頼家が好んだ蹴鞠に励み、近習となった。

筆者は思う。
父・義朝の敗死により、流人の身の上になった頼朝はそれまでに培った貴種の血脈と忍耐力と武術と政治力(朝廷との駆け引きも含む)を駆使して征夷大将軍に上り詰めた。
勿論北条家の合力があったことも、否定はできない。
源平合戦は元より、権力闘争や謀略による武士たちの死骸の上に造られた“鎌倉殿”は頼朝以外の生身の人間が座してはいけない座であったのだろう。
頼朝と御家人の命がけの奉公(戦に勝利して知行地を賜る)は、頼朝急逝後もシステムとしては機能した。だが、世代交代もあろうが、頼朝と政子の築いた“修羅の鎌倉幕府”の意味を頼家、実朝に正確に伝えられる人材が居なかった故に源家は北条家によって断絶されたのだろう。

頼家は、確かに愚かであった。しかしながら死の直前に悟ったのだ。
誅殺された梶原景時の言葉が甦った。「御所、この鎌倉は強い者しか生きてはいけない。肝に銘じて、誰がいつ何を仕掛けてくるか、とくと考えなされ」
既に落飾してもはや将軍では無い自分への暗殺指令を出したのが、北条五郎時房だと知った時、悟ったのだ。そして威厳をもって言った。
「五郎に伝えよ。まず私に仕えて、己の父と兄を討とうとした。次に父と兄の為に私を討つ。しかし、私の首を土産にしたとて北条の家督は永遠に継げない。お前の願いは義時か、泰時が実朝を斃した其の時に叶うだろう。せいぜい良くたすけることだ」

北条家に太刀打ちできる筈もないが、北条家が用意した神輿みこしに乗ることもなく、良くも悪くも自分らしく生きた頼家の物語をお楽しみください。
天一