魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ケイト・ブッシュがアメリカで売れない5つの理由

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2001年、'Q' 誌の年間音楽賞受賞のため、ロンドンはメイフェア地区のパークレーン・ホテルに到着したケイト・ブッシュ。farmweek.comより。

ケイト・ブッシュについていろいろと調べているうちに、ちょっと面白い英文記事を見つけたのでご紹介します。二つありまして、一つはリー・ジマーマン(LEE ZIMMERMAN)という人が2011年7月、ケイト・ブッシュの53歳の誕生日に合わせて発表した「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由(Five Reasons Why She Isn't Bigger In America)」という記事。もう一つは約半月後、マーク・ヒルシュ(MARC HIRSH)という人がこれに対する反論として別のサイトに投稿した「別のアメリカ人から見た『ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由』(Another American Looks At Why Americans Don't Care For Kate Bush)」という記事です。この二つを合わせてお読みいただければ、ケイト・ブッシュが今日のミュージック・シーンにおいて如何にユニークな存在かということがお分かりいただけると思います。
例によって元の記事を書いた人たちには無断で訳しますので、あくまで短期間の公開にとどめたいと思います。また文中に出てくるケイト・ブッシュの年齢やCDの売り上げ枚数などのデータはすべて2011年7月~8月現在(『雪のための50の言葉』が出る直前)のものであることにご注意ください。それではリー・ジマーマンさんの記事からどうぞ。


<目次>



ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由(リー・ジマーマン)

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メジャーデビュー前、ロンドンのパブで歌うケイト・ブッシュhttp://www.thektbushband.comより。

Happy Birthday Kate Bush: Five Reasons Why She Isn't Bigger In America
LEE ZIMMERMAN | JULY 30, 2011 | 4:19PM

この30年間に現れたイギリス人アーティストたちの中で、もっとも独創的かつ革新的な者の一人として母国では称えられながらも、悲しいかな、ケイト・ブッシュアメリカでは影の薄い存在にとどまっている。本日53歳の誕生日を迎える彼女を慕う者は、この国では少数の崇拝者たちに限定されており、これは彼女が単に無視されているか、もしくは秘密裏にシャッフルされて目立たなくなっていることを示している。しかしながら彼女の傑作の数々、その中には名盤『魔物語』『ドリーミング』『愛のかたち』、はたまた印象的なシングル「嵐が丘」「少年の瞳を持った男」「神秘の丘」そして「ドント・ギヴ・アップ」(ピーター・ガブリエルとの共演)が含まれるが、これらを聴いたことがある者は誰しも、彼女がポップ・ミュージックの限界をひん曲げ、極めて想像性に富み、かつまた抗し難く魅力的な新しいサウンドを創出する能力を持っていることを等しく認めるであろう。

ピーター・ガブリエル「ドント・ギヴ・アップ」featuring ポーラ・コール。1994年。

Peter Gabriel with Paula Cole HD Don t Give Up from Secr

その創造力、その官能的なメロディ、その独特でしかも安定したソプラノ・ヴォイスをかんがみれば、ケイト・ブッシュアメリカの聴衆となぜ共鳴できないかを問う理由は十分にある。彼女が16歳のころから活動を続けていて、デヴィッド・ギルモアのような大物の後押しを受けている事実は何らかの説明になるはずである。率直に言って、われわれはいささか困惑しているので、ここでは彼女の成功を阻害している要因について、幾つかの当てずっぽうを並べてみるに過ぎない。

ケイト・ブッシュはイギリス人である

なるほど。われわれアメリカ人にはイギリスの人気者に対するある憧れがある。ザ・ビートルズデヴィッド・ボウイウィンストン・チャーチルピーター・セラーズは皆イギリス人であり、われわれは彼らを熱愛したが、彼らが皆イギリス人特有の変人性を持ち合わせていたことも事実であった。われわれはウィリアム王子夫妻には完全に夢中であるが、チャールズ皇太子に対してはそれほど夢中ではなく、彼がダイアナ妃を離縁してからは全然夢中ではなくなった。その一方で、われわれは「ブラック・アイド・ピーズ」のファーギーアメリカ人)のことは大好きだが、「王室のファーギー」すなわちアンドリュー王子の前の奥さん(イギリス人)のことはそれほど好きではなく、彼女の唯一にして真の才能は減量プログラムの調整にあると思われる。イギリス由来のもので、われわれアメリカ人が決して理解する気になれないものがある。たとえばお茶うけとしてのクランペット。同様のものに、山高帽がある。ファッションのトレンドなどは大したことではない。たとえばオアシスはイギリスでは偉大なバンドだが、アメリカでは・・・要するに、この英米間の兄弟げんかは犬も食わない低レベルのもので、たとえばエルボー(イギリスのロックバンド)に恋わずらいを抱えているアメリカ人に、挙手投票を求めても無駄であろう(腕が上がらないだろうから)。ミズ・ブッシュについて言えば、彼女は英国訛りの発音で英語の歌を歌い、人里離れた田舎の一軒屋で暮らし、かつてロンドンへと舞い戻ってきたのは「英国音楽に対する顕著な貢献により」アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞したので、その授賞式に出席するためであった…アイヴァー・ノヴェロ賞とはそもそも何ぞや?彼女がこのカルチャー・クラッシュの犠牲となるにはもっともな理由があるのだ。

ケイト・ブッシュは少し変である

いかにも。レディ・ガガもデビュー当初から奇行で知られ、それでも大ヒットを飛ばしているが、ケイト・ブッシュは常にほとんどのアメリカ人がついていけない程度にまで奇天烈であった。彼女独特の歌唱スタイル、それはしばしば奇声と、嬌声と、奇妙に変幻自在な歌唱法との混合物であるが、それは彼女のプロモーション・ビデオ類において見られるところの現代的な舞踊技術とパントマイム的な身振り手振りとの合体による一つの珍妙な表現形式とよくマッチしている。そうしてこのようなアーティストぶったアプローチは、大多数のアメリカ人にとって、独創的というよりは胸がむかつくものなのである。

レディ・ガガ「バッド・ロマンス」「スピーチレス」のライブ映像。2009年アメリカン・ミュージック・アワードでの非常に有名なパフォーマンス。

Lady Gaga - [HD 1080p] Bad Romance, Speechless (Live on the American Music Awards 2009)

ケイト・ブッシュは文学的で知的である

これは致命的につまらない点で、なぜならわれわれは阿呆なことをやらかす人間に好意を寄せる傾向があるからである。われわれはブリトニー・スピアーズパリス・ヒルトンのようなタイプ、すなわちその人生は一連の大惨事であり、あらゆる愚行や大失敗について書き立てることができるゴシップ紙に飼料を供給するために生存しているところの脳味噌の分量の極めて乏しいタイプの人たちに魅せられている。これに対してケイト・ブッシュは奥ゆかしい英国人の一典型であり、その私生活はタブロイド紙から厳重に保護され、秘匿されている。ケイト・ブッシュの初期のヒット曲「嵐が丘」はある古典文学作品に触発されて書かれた…マジかよ?君はアメリカ人がそのような賢い人に魅力を感じると思うか?知性に興味のある人間がどこにいよう?とんでもない話である。われわれはいつだってブロンテを措いてバットマンを採る人種なのだ。

ブリトニー・スピアーズの2003年のヒット曲「ミー・アゲインスト・ザ・ミュージック featuring マドンナ」。

Britney Spears - Me Against The Music ft. Madonna

トーリ・エイモスケイト・ブッシュの倍売れている

確たる証拠はないが、アメリカで人気のトーリ・エイモスは、そのスタイルの多くをケイト・ブッシュから盗んでいるようなフシがある。両者ともに飾り気のない、ピアノ主導のメロディーを紡ぎ、それは繊細微妙なテーマをはらみながらも高音域で歌われ、その間ずっと、彼女たちは不安と緊張の間でかろうじてバランスを保っているという風に見える。先行したのはケイト・ブッシュだったが、その初期の段階でさえ、両者を聴き分けることは困難であった。やがて後発のエイモスが背後から忍び寄り、かのセンシティブなシンガー・ソングライターのお株を奪うに到ったのである。もし彼女たちが本当に違う母親から産まれた双子であるとするならば、われわれの「ソフィーの選択」により、「アメリカの恋人」となったのはトーリ・エイモスの方だったのだ。

ソロデビュー前のトーリ・エイモスによるレッド・ツェッペリン「サンキュー」のカバー。1991年。

Tori Amos Thank You

ケイト・ブッシュは人前に出たがらない

この30年間を通じて、ケイト・ブッシュがツアーを行なったのはたったの一度だけ、それもごく初期のうちだけである。また彼女は寡作でもある。彼女のアウトプットのペースは90年代に入って大幅にスローダウンし、1993年の『レッド・シューズ』以降、次の2枚組アルバム『エアリアル』が2005年に出るまでに実に12年の歳月を待たなければならなかった。今年出た『ディレクターズ・カット』は『レッド・シューズ』と力作『センシュアル・ワールド』のセルフカバーで、今のところ市場に出回っている彼女の作品はこれがすべてである。今年の後半にニューアルバムが出るという噂も多く聞かれるが、彼女の生産性の低さは知れ渡っており、固唾を呑んで待ち受けているファンなど一人もいない。そうしてここに無視できない鉄則がある。すなわちこのエンタテイメントの世界では、出しゃばらない者は、忘れ去られてしまうのである。

にもかかわらず、ケイト、曲を書き続けてくれ。今までのところ、君はこちらではまだ無名に近い。

www.browardpalmbeach.com



別のアメリカ人から見た「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由」(マーク・ヒルシュ)

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2014年、35年ぶりにステージに立ったケイト・ブッシュウィキメディア・コモンズより。

Another American Looks At Why Americans Don't Care For Kate Bush
August 16, 2011 9:56 AM Eastern Time MARC HIRSH

ケイト・ブッシュは先日53歳の誕生日を迎えた。もしあなたがごく普通のアメリカ人なら、この情報はあなたにとって何の意味もない。
少なくとも、これが "The Broward/Palm Beach New Times" に掲載されたリー・ジマーマンの主張である。ケイト・ブッシュの誕生日当日に公開されたブログ記事の中で、彼はこのイギリスのシンガー・ソングライターアメリカで経験したトラクションの欠如について嘆いている。
ケイト・ブッシュのファンにとって、時をいたずらに過ごすことは、決して愉快なことではないとしても、いつものことではある。彼女は母国イギリスにおいては一点非の打ちどころのない商業的勢力である。彼女の全アルバムは(旧作に少し手を加えただけの『ディレクターズ・カット』も含めて)ブラチナか、ゴールドか、さもなくば(おおイギリス人どもよ!)シルバー・ディスクに輝いている。シングルを出せば当然のようにヒットし、1978年の「嵐が丘」以来、そのうちの10枚以上が全英20位以内を記録した。ここアメリカではゴールド・ディスクが1枚(『センシュアル・ワールド』)、シングル40位以内が1枚(「神秘の丘」)、ビルボード・トップ100に入ったのがわずか2枚(ピーター・ガブリエルの作品で、傑作だったにもかかわらず、チャートの順位はイマイチで、ケイト・ブッシュの天使のような歌声が聴ける「ドント・ギヴ・アップ」を勘定に入れれば3枚)にとどまっている。
以上の実績と狂信的なファン集団とがあれば、それで十分だという人もいるだろう。ところが英米間のこの人気の格差にいら立ったジマーマンは、「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由」なるものを持ち出してきた。血のつながった者同士のごとき同好の士の心意気、すなわちそれは同じものを心から愛し、その愛するものについて、部外者が「いいかげんにしろ」などと怒鳴り込んで来ない限り、夜が明けるまで延々と激論を戦わせることができる(戦わせるであろう)、そのような二人にしか共有できない心意気をもって、私は彼の説を論破し、彼の記事をシュレッダー送りにしてやろうと思う。

ケイト・ブッシュはイギリス人すぎる」

事実、ケイト・ブッシュは、ベックスリーヒースなどといういかにもイギリスらしい名を負った土地に生まれながら、彼女自身を全世界にアピールするにあたって、自分のイギリス人らしさをトーンダウンさせたことは一度もない。彼女の音楽は(明確な時も不明確な時もあるが、常に)英国のミュージックホールを意識しており、彼女の歌詞の中にはヴィクトリア朝風のシャープでロマンティックな縞模様が流れていて、また彼女は時としてその歌声を、イギリス固有のアクセントと土着語の勢ぞろいで飾り立てる(たとえば「10ポンド紙幣が1枚」に出てくるギャングの親分のコックニー訛りの語り口を聴きたまえ)。しかし、もしイギリス人らしさを前面に出すだけで、アメリカで失敗するのに十分だというのなら、以下のリストはすべてのブリティッシュ・ミュージック・ファン、しかも最も意見の一致したファンたちにとって、無意味な呪文に過ぎなくなるだろう。そのリストとはすなわちザ・スミスザ・キュアー、ブラー、オアシス、パルプ、ザ・クラッシュ、セックスピストルズ、ザ・キンクスである。この中にはアメリカでの実績を積み上げて成功を維持したバンドもあれば、一発屋に終わったバンドもある。しかしいずれのバンドも何らかの点で超イギリス的であり、ケイト・ブッシュよりも偉大な文化的可視性のレベルに到達していたのである。

ロシアのポップデュオ "t.A.T.u." によるザ・スミス「ハウ・スーン・イズ・ナウ 」のカバー。2002年。

t.A.T.u - How Soon Is Now

ケイト・ブッシュは変人すぎる」

ケイト・ブッシュがその代表作を世に問うていたころ、われわれは変人シンディ・ローパーを時代の女神に祭り上げ、また一介のへんちくりんなアート・ロッカーに過ぎなかったピーター・ガブリエルを、ある一枚のアルバムをもってスーパースターへと変貌させたが、そのアルバムでフィーチャーされていたのは脳性変人ローリー・アンダーソンセネガルの歌手ユッスー・ンドゥール、そしてケイト・ブッシュその人であった。利用可能な「変人枠」の数には一定の制限があるのかも知れないが、とにかくわれわれが変人たちに対して本能的に門前払いを喰らわすものでないことだけは確かである。

ケイト・ブッシュは文学的すぎる」

たぶんね。彼女はとにもかくにも、エミリー・ブロンテからヒットソングをひねり出しただけではなくて、ジェームズ・ジョイスが「イエス("yes")」の一語に込めたエロティシズムを、「センシュアル・ワールド」の中に見事に取り込んでみせたのだ。しかし彼女の作品をアメリカ人に取っ付きにくくしているものの本質は、おそらくその文学性ではなくて、演劇性なのである。彼女の想像の世界は舞台(「ワォ」)、シネマ(「ハンマー・ホラー」の中で、表面上は安っぽく取り扱われているが、しかし重要)、そしてバレエ(「 レッド・シューズ」)を含み、しかもそれは歌詞の中だけではない。彼女の一度きりのツアーはダンサー、映像、衣装替え、それに奇術を駆使した一大マルチメディア・スペクタクルであった(1979年当時、それは「パフォーマンス・アート」であったが、今日では「ケイティ・ペリー」と呼ばれている)。彼女の動画もこれに倣い、やがてシネマの分野に近づくようになった。その証拠がドナルド・サザーランドを彼女の父親役としてフィーチャーした「クラウドバスティング」のクリップである。彼女はもともとみずからの想いを歌に託すというよりも、歌の登場人物になりきって、その人自身の声色で歌うというところがある(もう一度「10ポンド紙幣が1枚」を聴き直してほしい)。われわれは物語作家としての彼女の「読者」になることはできたが、少なくとも1980年代には、映像作家としての彼女を理解するまでには到らなかったのである。

ケイティ・ペリー「キス・ア・ガール」のライブ映像。2014年、グラスゴー

Katy Perry - I Kissed A Girl (Live @ BBC Radio 1's Big Weekend)

「われわれには既にトーリ・エイモスがいる。だからケイト・ブッシュはいらない」

ジマーマンは触れていないが、トーリ・エイモスの他にもう一人、サラ・マクラクランを加えるべきだろう。問題は、彼がケイト・ブッシュトーリ・エイモス先行者としながらも、エイモスが現れた1992年には、ケイト・ブッシュはもはや遠吠えしている負け犬でしかなかったという事実を忘れていることである。「神秘の丘」のヒットはアルバム『愛のかたち』のヒットに直結せず、ベスト盤(イギリスでは「グレーテスト・ヒッツ」だったが、アメリカではそうではなかった)(訳者注:1986年リリースの『ケイト・ブッシュ・ストーリー』を指す)もまた人々が長年失っていた記憶を取り戻すほどのインパクトを持ち合わせてはいなかった。またケイト・ブッシュアメリカでの販売元をEMIからコロムビア・レコードへとスイッチし、コロムビア・レコードは『センシュアル・ワールド』を懸命に売り込んだが、何の成果も上がらなかったように見えた。エイモスが『リトル・アースクエイクス』でゴールド・ディスクを獲得した後、ケイト・ブッシュはもう1枚だけアルバムをリリースしてから12年間の冬眠に入った。エイモスは何も盗まなかった。盗みたくても盗めるものがなかったからである。
とはいえ、エイモスの成功は、ケイト・ブッシュアメリカにおいて彼女なりのやり方で成功を収めた証拠と見ることもできる。私が初めてエイモスを知ったのはケイト・ブッシュに関するネットニュースグループ "rec.music.gaffa " での議論を通じてだった。この "gaffa" という言葉はケイト・ブッシュの楽曲「ガッファにて」へのぼかした言及で、わかる人にだけわかる暗号のような役割を担っていたが、そこではエイモスの名は大変な熱狂をもって喧伝されていた。ピアノが弾ける女たちには、ジョニ・ミッチェルローラ・ニーロのような偉大な先達たちに触発されたどんな天才よりも、はるかにアーティストっぽい才能を開花させる余地があることを、エイモスとマクラクランは身をもって示したのである。ケイト・ブッシュは、彼女自身は何ら報われるところはなかったけれども、アメリカの次世代の女たちのために、パフォーマンス上の基礎を築いたのだと確かに言っていい。

サラ・マクラクラン「エンジェル」 featuring ピンク。2008年、アメリカン・ミュージック・アワード。

Sarah McLachlan with Pink - Angel [Live]

ケイト・ブッシュは浮世離れしすぎている」

もちろんである。先に触れた1979年のツアー以後、1987年の「シークレット・ポリスマンズ・ボール」への出演のような単発の機会を除いて、彼女は一切のライブ・パフォーマンスから身を引いた。それとともに彼女はアルバムを出す間隔を次第に長く取るようになり、遂に彼女が『エアリアル』(現時点での彼女の本当の意味での最新アルバム)を出すまでにかかった時間は、彼女がこの世に生まれてからデビューするまでに要した全時間よりもわずかに7年短いだけとなった(「嵐が丘」が出たころ、彼女は19歳だった)。しかしこれらは確かに人気低迷の一因とはなりうるものの、これまた『エアリアル』が全英3位に、またそこからの唯一のシングルカット曲「キング・オブ・ザ・マウンテン」が全英4位に達したことを説明できるものではない。世捨て人のように暮らしながら、彼女はイギリス国内ではなおも絶大なる人気を誇っていたのである。

結論

さて、ジマーマンの主張をことごとく親切丁寧に退けた今、ケイト・ブッシュアメリカでの相対的な不人気について、私はどう説明すべきなのだろうか?確かに彼女は1980年代にポップ・ミュージックの世界で活躍していた女性のどのタイプにも適合していなかった。ただ一人、マドンナ(意味があるかどうかは別として、ケイト・ブッシュよりも17日だけ年下)だけは、ケイト・ブッシュと同様、多彩な指向性を併せ持つタイプだったが、しかし彼女はケイト・ブッシュよりも露骨にセクシー指向であると同時に、あの誰もが踊り狂っていた十年間にあって、狡猾にも、よりクラブ指向であった。またピーター・ガブリエルの例にもかかわらず、アート・ロックが成功への切符というわけでもなかった。
しかしながら、ケイト・ブッシュアメリカで一度もブレイクすることがなかったのは、ただ単に彼女自身がアメリカに興味がなかったからだけなのかも知れない。コロムビア・レコードは彼女のアメリカ進出について確かに興味を抱いており、『センシュアル・ワールド』によって、彼らの新しい投資先が決して単なる一発屋ではないことを証明したがっていた。しかし今あらためて彼女のキャリアを振り返ってみると、もし彼女が本当にアメリカでの成功を望んでいたならば、しかるべくツアーの手配をし、プレスリリースを行ない、ラジオやMTVにも出演して、時間の無駄でしかないインタビュー等にもそれなりに対応していたのではないか。私にはそのように思われてならないのである。しかし彼女はそれをしなかった。その結果(と言っていいのかどうか知らないが)、彼女はアメリカでは熱烈な崇拝者の一小集団を擁するにとどまった。

本当に不思議なのは、彼女がなぜアメリカで売れないかではなく、彼女がどうやってあれほどイギリス国民に愛されるようになったかである。

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