魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)ハイネ「ムーシュのために(Für die Mouche)」

最晩年のハイネと「ムーシュ」ことエリーゼ・クリニッツ(筆名の一つに「カミラ・セルダン」とも言う)。ハインリヒ・レフラー画。ウィキメディア・コモンズより。

今から170年ほど前にドイツ語で書かれた詩をご紹介します。私はドイツ語はわからないので、英訳からの重訳になります。ドイツ語原文はこちら。参照した英訳はこちらこちら。邦訳では井上正蔵教授のものが一番参考になりました。(2024年11月)



俺は夢を見た 夢で見たのは
夏の月夜の廃墟だった
それは在りし日の栄華の 今は見る影もない残骸
ルネッサンス期の遺跡だ

瓦礫の山のあちらこちらに
荘重なドーリア式柱頭を冠した石柱が立ち
その天をする高さは
かみなりさまを見下ろすばかりだった

足もとに所狭しと散乱する
崩れ落ちた門扉もんぴや山型の屋根
人や動物の像もあれば ケンタウロススフィンクス
チュロスやキメラなど 幻獣の像もある

おびただしい数の女神像が
伸び放題の雑草に覆われて倒れていた
「時間」という名の梅毒におかされたニンフの
顔からは 高い鼻がもげていた

大理石でできた ふたのないエジプト石棺サルコファガス
このがらくたの中に 無傷で残っていた
その中には一人の男性の遺体が これまた完全体で
悲しみを帯びた静かな顔をして 横たわっていた

首をぴんと伸ばした女人像列柱カリアチード
これを頭に乗せて しっかりと支えているように見えた
そうしてこの石棺の両側には およそ雑多な人物像の
淺浮き彫りバ・レリーフが認められた

見よ これぞオリュンポス山の栄光と
そこに住む性欲旺盛な神々の姿
そのかたわらにはアダムとイブが
可愛らしいイチジクの葉で前を隠して立っている

ここには没落炎上するトロイ
パリスやヘレネ ヘクトールの姿も見える
すぐそばに立っているのはモーセとアロン
エステル ユディト ホロフェルネスやハマンも一緒だ

また見る愛神アムール
フィーバス・アポロ ウルカヌスとその妻ヴィーナス
プルートー プロセルピナ メルクリウス
酒神バッカス プリアポス そしてシレノス

そのかたわらに立っているのはバラムの驢馬ろば
今にも口を利きそうなほど本物そっくりだ
そこにはまたアブラハムの試練の姿
娘たちに泥酔させられるロトの姿

ここにはへロディアの娘の踊る姿
バプティストの首が盆に載せて運ばれる
ここには地獄と魔王サタンの姿
聖者ペテロが天国の門大鍵おおかぎげている

これに代わって目に映るもの
それは主神ゼウスの欲望と罪の数々
いかにして白鳥となってレダと交わったか
いかにして金貨ダカットの雨となってダナエをはらませたか

ここには野獣を狩る処女神ディアナの姿
あとに従う猛犬マスティフたち 身なりのよいニンフたち
ここには女装したヘラクレスの姿
手には糸巻き棒を持ち 紡錘スピンドルを回転させている

次に見るのはシナイ山
イスラエル雄牛おうしとともに山麓さんろくにある
十二歳のイエス・キリストが寺院の中で
権威オーソドックスを論破している姿も見える

対照的なものがことごとく隣り合わせになっていた
それはすなわちギリシャの官能主義と
ユダヤ精神主義だ アラベスク風の
蔦葛つたかずらが双方に巻きついていた

ところが奇妙なことに
こうして芸術作品に見とれているうちに
俺はいつしか故人となって
その大理石の棺の中に横たわっていた

そうしてわが枕もとには
一輪の妖花が咲いていた
その葉の色は硫黄色いおういろで 紫でもあった
狂った魅力がその花に君臨していた

人はこれを「受難の花」と呼び
昔「神の子」が殺され
彼のあがないの血が流された日に
ゴルゴダの丘に咲いたと伝えられる

人は言う この花こそ流血の目撃者で
「神の子」を処刑するために刑吏が使用した
拷問器具一式の記憶を
そのうてなの額縁の内にとどめているのだと

さよう この拷問部屋全体に
受難パッション」の小道具がすべてそろっていた
縛る縄 責める鞭 血の杯や茨の冠
十字架があり 鉄槌があり 打つべき釘があった

わが墓のかたわらに その花はたたずんでいた
そうしてわが亡きがらの上に身をかがめると
死者をいたむ女性の身振りで 口をつぐんだまま
わが手や わが目や わがひたいに口づけをした

すると夢とは不思議なもので
この硫黄色いおういろの「受難の花」が
一人の女性へと姿を変えた
それは彼女だった わが意中のひとだった

それは君だった わが最愛の子よ
その花のキスで君だとわかった
こんなに柔らかいくちびるの花は君しかいない
こんなに熱い涙を流す花は君しかいない

俺は目を閉じたまま 君を見ていた
目を閉じたまま 君の顔をじっと見ていた
君は俺を見ていた 狂喜に満ちた目をして
月光を浴びた亡霊の姿で

われわれは黙っていた だが俺には
君の口に出さない想いが読めた
口に出してしまえば恥知らずな女になる
恋は口に出さずにいてこそ花なのだ

そうして沈黙とは何と雄弁なものだろう
何の隠喩も 何の隠語もなしに
何の言葉のあやも 何の言葉の飾りもなしに
一切をありのままに 正直に告げてくれる

諸君には信じられまい この優しい語らいにも似た
沈黙の対話というものを
歓喜と恐怖とで出来た この夏の夜の甘美な夢のうちに
時間は何とすみやかに過ぎたことか

われわれが何を話したか それはいてはならない
ほたるにはけ 草地に何を光るのか
河水みずにはけ 何を流れるのか
西風にはけ 何を吹き 何を嘆くのか

カーバンクルにはけ 何を輝くのか
薔薇や花菖蒲にはけ 何をかおるのか
だが殉教者と殉教の花とが 月光のもと
何をわしたかは絶対に明かせない だからくな 

この冷たい大理石の棺の中で
俺は恋人との交歓の夢を
時を忘れて楽しんでいたが この安眠の
よろこびは 出し抜けに打ち破られた

おお「死」よ お前だけが その厳粛な沈黙によって
われわれに最高の快楽を与えてくれる
愛の痙攣けいれんや休みなき快感が与えてくれるもの
それは「幸せ」ではなく 卑しむべき「いのち」なのだ

だが悲しいかな わが至福の時は束の間だった
外から急に雑音が来た
それは侃々かんかん諤々がくがくたる口論だった
ああ わが花はこの騒ぎで消えてしまった

そうだ 俺はこのとき外界に巻き起こった
囂々ごうごうたる非難の応酬に
数限りない声を聞き分けた
それはわが棺の淺浮き彫りバ・レリーフたちの声だった

古代宗教の狂気が石に取りいているのか?
この大理石像たちが言い争っているのか?
野性の牧神パーン雄叫おたけびが聞こえる
モーセの呪いの声も聞こえる

ああ このいさかいは終わらない
「真実」と「美」とは相容れない
人心はヘレネスバルバロイとに
両断されて 常に葛藤している

甲論こうろん乙駁おつばく この不毛な論争は
いつ果てるともなく続き
そこへ現れたのがバラムの驢馬ろば
神々や聖者たちよりも大声を上げ

この畜生が何度も鳴くその奇妙な鳴き声で
そのおぞましい奇声によって
絶望のどん底に突き落とされたこの俺は
自分自身の叫び声で 目が覚めた