魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ジョン・トレシュ(John Tresch)「科学記者としてのポー(Edgar Allan Poe, Science Reporter)」

近著『夜の闇の理由――エドガー・アラン・ポーアメリカ科学の鍛造(The Reason for the Darkness of the Night: Edgar Allan Poe and the Forging of American Science)』が好評の科学史家ジョン・トレシュ教授が、このコロナ禍の時代にポーを読み返す意義について語ります。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、あくまで短期間の公開にとどめたいと思います。原文はこちら。

slate.com


Edgar Allan Poe, Science Reporter
His wild, sometimes forgotten science writing has a lesson for our COVID moment.

BY JOHN TRESCH
AUG 02, 2021 5:45 AM

「赤い死の仮面」

エドガー・アラン・ポー1830年代のアメリカにおけるコレラパンデミックの経験者である。ポーの妻は1842年、肺結核による最初の発作で喀血し、彼はその看病に四苦八苦することとなったが、その事件の直後に発表されたのが「赤い死の仮面(Masque of the Red Death)」*1であった。この感染症に関するクラシックな短編小説は、このところ、約一年と半年にわたって話題となっているけれども、その理由ははっきりしている。時は中世、プロスペロ公爵とその堕落した客人たちは、ある宮殿に引きこもり、外界で猖獗しょうけつを極めている感染症から城壁によって隔離されたと考える。彼らの破滅は迅速かつ衝撃的だ。公爵が催した仮面舞踏会に、感染症は死人のコスチュームを着て忍び込み、彼に目を付けられた道楽者たちは「一人また一人と、舞踏会場を血に染めながら倒れ」、不気味な末行では「暗黒と腐敗と赤い死とが一切の上に永く君臨するに到」る。
この短編は人間が感染症に対して抱く恐怖を利用しているわけだが、ポーの生涯と業績のうちに、現代、すなわち公衆衛生や科学や情報伝達におけるこのコロナ危機の時代(COVID-era crisis)において、その存在をより有意味レリヴァントなものとする側面があることはあまり知られていない。私が近著『夜の闇の理由』の中で述べているように、ポーは科学と、人々が科学を疑ったり信じたりする理由に対して、強い関心を持っていた。彼の存命中、科学的実践や説明は緒に就いたばかりだったが、それらは今日よりもはるかに厳しい社会的反発に直面していた。彼は科学の発展を綿密に追跡し、その進歩を支持する一方、その限界と乱用とを指摘した。彼は科学の力が政治的支援に、またその誤謬の率直な容認に――そうしてまた、とりわけ良き語り口グッド・ストーリーに、いかに依存しているかを示したが、彼のやり方は今日の研究者たちや科学解説者たちにとっても参考となるかも知れない。

19世紀アメリカの思想背景

ポーは1809年、チャールズ・ダーウィンと同じ年に生まれた。彼はウェストポイントで数学と物理学の訓練を受け、退学処分を受けた*2後も、19世紀初頭の急速な発見と発明とについて、常に最新の情報を確保していた。写真、蒸気機関、電信、鉄道は、技術革新による無限の進歩の兆候と見なされていた。運河や線路を作るための発掘調査で見つかった地層の研究によって、地球の絶え間ない、時として壊滅的な変動が明るみに出る一方、恒星や遊星や銀河の形成に関する新しい理論は『創世記』の記述と激突した。動物種が純粋に物質的なプロセスを通じて進化した可能性があるという説は、次第に支持を集めながらも、教会の猛烈な抵抗に遭遇した。
他方、情報やエンタテイメントに対する人々の欲求を満たしたものは、新しい健康増進術ヘルス・キュアを布教する自称「医師」たちや、全国各地を経巡へめぐりながら、天文学から動物学にいたるまで、あらゆる話題に関する馬鹿げた学説を展開する職業講演家レクチャラーたちであった。ブロードウェイではP. T. バーナム(Phineas Taylor Barnum)の「アメリカ博物館(Barnum's American Museum)」が「フィジー人魚」(サルの上半身に魚の尻尾を縫い付けたもの)などの「大発見ディスカバリー」を展示して議論を招く一方、地方を巡回営業している南北戦争以前アンテベラム理系男子テック・ブロたちは電気通信や飛行機械への投資計画を売り込んでいた。

Feejee mermaid

1842年、『ニューヨーク・ヘラルド』紙に掲載された「フィジー人魚」の写真。ウィキメディア・コモンズより。

知識と自然の秩序をめぐるこれらの衝突が激化する中で、そうして同時に奴隷制をめぐる嵐が吹き荒れる中で、アメリカはメディア革命をも経験していた。新聞や雑誌の数は爆発的に増加した。今日、一つのツイートがリツイートによって世界中に拡散されるのと同じように、ニュース・アイテムはカットされ、コピーされ、他紙から他紙へと転載され、元記事を書いた人の意図や信用がないがしろにされる点でも同様だった。

最新の科学的知識の文学作品への応用

ポーの筆はジャンル間を行き来し、時には事実を説き、時にはフィクションの劇的効果を上げるために、科学的知識を利用した。彼はリッチモンドフィラデルフィア、ニューヨークの雑誌で働いている間、科学および技術の発展に関する確かな評価を発表した。彼が生前出版した本の中でもっともよく売れたものの一つは貝類学の教科書*3だった。彼はまたフィクションの分野においても科学的な事実および理論を頻繁に活用した。それはたとえば博物学流体力学の知識に裏打ちされた彼の1841年の航海スリラー「メイルシュトロームへの降下(A Descent into the Maelström)」*4であって、そこでは主人公がノルウェーの渦潮の絶体絶命な旋回に巻き込まれるが、観察と推理とによって水難を免れる。同じ年の別の短編「モルグ街の殺人事件(The Murders in the Rue Morgue)」*5では、ポーは斬首された母親と、絞殺され、密室の暖炉の中に押し込まれたその娘という、二つの死体の形をした戦慄すべきパズルをもって読者と対峙した。この小説において、ポーはただ単に探偵小説の悪趣味なお約束トロープを発明し、のちにシャーロック・ホームズのモデルとなるところの平和を愛する思索家オーギュスト・デュパンを世に出しただけではない。彼は当時の天文学的および生物学的論争や、過度に劇的な物の見方や、ずさんな検証やらに介入し、歩みののろい経験主義と、研ぎ澄まされた直観による飛躍との間の大きな相違に光を当てたのである。

A Descent into the Maelström

ハリー・クラーク「メイルシュトロームへの降下」。ウィキメディア・コモンズより。

このような作品において、ポーは新しい科学に対する大衆の興奮を利用した。その方法と発見とを広く世間に伝えながら、彼自身は常に一歩先を歩いていた。科学の公の顔はこの当時、紳士的なアマチュアのための娯楽から、膨張する諸国家にとって重要な、一律に訓練された専門職へとシフトしつつあった。ポーの存命中、結束した一握りのアメリカの科学者たちは、「科学の道に精進している真人間」とペテン師の類いとを区別するための国家機関を建設する計画を推進した。彼らの努力はスミソニアン協会(Smithsonian Institution)やアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science; AAAS)の設立につながった。ポーはそのようなプロジェクトを支援するコラムを書く一方、アメリカ文学のレベルを引き上げるため、彼自身の雑誌の発刊を立案した。彼が計画し、最終的に『ザ・スタイラス(The Stylus)』と名付けられた雑誌は、非人称的で客観的な批判を推し進め、「すべての個人的な偏見バイアスから離れて」、「芸術の最も純粋な規則によってのみ」導かれるはずだった。彼は非人称的で客観的な評価基準クライテリアに基づいて文学を分析しながら、芸術作品一般の分析、さらには創造にまで、科学的な客観性をもたらすことを目指していた。

トリックスター」としてのポー

とはいえ、ポーは文学では「山師の打倒」を試みて喝采を浴びたが、ゲームと幻術イリュージョンとを愛してやまない気質から、また世人の耳目を集めたい一心から、彼自身、P. T. バーナムの法螺にも引けを取らない大法螺を吹いた。彼は1844年、『ニューヨーク・サン』紙上に、熱気球が大西洋を横断したとするデタラメに満ちた科学記事を書いた*6。メディカル・レポートの体裁で書かれ、まず二つの大雑誌に掲載された短編の中で、彼はまたある架空の実験の実録を詐称し、その内容はある患者が催眠術によって死期を延ばしたというものだった*7。この虚偽の「症例ケース」はロンドンの医学雑誌にまで転載され、議論された。このような文学的曲芸スタントは、小説やら、詩やら、ファッション記事やら、ゴシップ記事やら、科学記事やらが詰め合わせになっている一般誌上で公開され、未曾有の情報の洪水の中で曖昧化しているジャンル間の境界を利用したものであった。これらの記事がデモンストレートしているのは、専門用語を駆使することが、真実を語る上でも、法螺を吹く上でも、ひとしく役に立つという事実である。注意深い読者が騙されることはなくても、これらの記事自体に関する不審な点、すなわち誰が、何を根拠に、どんな目的でこれを書いたかについては、大衆の間に論争が湧き起こった。

The Facts in the Case of M. Valdemar by Harry Clarke

ハリー・クラーク「ヴァルデマー氏の症例の真相」。ウィキメディア・コモンズより。

ポーは科学的知識の大真面目な宣伝者であり得たにもかかわらず、同時に根っからのトリックスターでもあって、科学の盲点と限界とを暴露せずにはいられなかった。東海岸のあちらこちらの雑誌に掲載されたユーモア小説の中に、彼は科学への過信に対する疑念を込めた。「ミイラとの論争(Some Words With a Mummy)」*8では、ガルバニ電池による電気ショックで息を吹き返したエジプトのファラオとの討論の中で、フィラデルフィアの解剖学者、サミュエル・モートン(Samuel Morton)そっくりのキャラクターがその馬鹿げたうぬぼれをさらけ出すが、この男は墓や戦場からかき集めてきた頭蓋骨を調べた結果、人間の生得の人種的優劣(hierarchy of races)が明らかになったと主張した人物である。「実業家(The Business Man)」*9や「使い切った男(The Man That Was Used Up)」*10などの他の短編では、テクノロジーの無限の進歩を予言し、人生のあらゆる災いに対してデータ駆動型のソリューションを約束するところの自信過剰な功利主義的改革者たちや起業家アントレプレナーたちの主張を、ポーは攻撃した。彼が遺したデマ記事や風刺小説は、科学的方法や合理的証明が、必ずしも物事の真実性を保証するものではないことの好標本である。

独創的な宇宙開闢説『ユリイカ

ポーは科学に関する多くの記事を通じて、科学的事実がそれだけでは意味を成さないことを示した。彼によれば、綿密に織り上げられた一連の証拠エビデンスは穴だらけの臆測よりもはるかに価値があるにもかかわらず、最良の科学者たちとは、彼らの学説を直感的に感じ取れる、美的な脈絡コヒーレンス――すなわち彼のいわゆる「効果の統一(unity of effect)」によって、興味深いテイルとすることができる人たちなのである。ポーにとっては宇宙そのものが壮大に創作された「筋書きプロット」だった。彼は死の前年、1848年に発表した『ユリイカ――物質的ならびに精神的宇宙についての論考(Eureka: an Essay on the Material and Spiritual Universe)』*11の中で、その科学的かつ詩的な姿を伝達しようと試みた。ポー自身は『ユリイカ』が「形而上学と形而下学の世界に革命を巻き起こす」と信じて疑わなかったが、当時確立された天文学的および物理学的知見と、粗野な宇宙論とを不可解に結合させたものとして、まったく顧みられなかった。読者がそこに相対性とビッグ・バンとに関する不気味な先見を認めたのは20世紀になってからだった。

結論

彼が科学記事を書く際に用いた多彩な様式モード、そうして真理というものはその伝達の仕方と不可分に結びついているという彼の認識センスにおいて、激動の時代を生きたポーのアプローチは、同様に激動の時代である今の時代にも通じるものがある。宇宙を語るにせよ、気候変動を語るにせよ、パンデミックを語るにせよ、科学には今なお良き語り口グッド・ストーリーが必要なのだ。たとえばその近著『なぜ科学を信じるのか?( Why Trust Science?)』における著者ナオミ・オレスケス(Naomi Oreskes)の主張のごとく、科学史家たちや科学社会学者たちの考えでは、科学の信頼性が拠りどころとしているものは、抽象的な、すべてを包括する真理でも、統一された方法でも、孤高な天才たちでもなくて、確立された社会制度と、それが提供する多くの、繰り返し吟味された手法なのである。それらはもちろん完璧ではない。だが質問と、挑戦と、改良と、特定の事象に対する適用とを経た末に、それらはわれわれが手に入れたもっとも信頼に値するツールとなったのだ。科学者たちは、一段高いところから既成の事実を説教するかわりに(そうしてついてこれない人々に対して首を振るかわりに)、彼らが結集して行なってきた推理と懐疑と検証との長い道のりを明らかにし、様々な視点やジャンルや形態に及ぶ彼らの物語を語り、さらに語りなおすことで、彼らの権威を高めることができるであろうことを、ポーは思い出させてくれる。多種多様な人々に対して、科学的な学説や方法の妥当性や堅牢性を納得させるためのクリエイティヴな手段を探す試みは、決して無益な迎合ではなく、命にかかわる情報を行き渡らせる上で必要なケアを提供するものだと見なすべきだろう。またポーの卓越した構想や名文の数々に接した者は、STEM教育がいかに重要といえども、それが人文科学による言語表現のスキルを欠いた時、衰弱を免れないことに気がつくだろう。推理と発見との紆余曲折を語る上で、はたまた科学的結論を生徒たちに教える場合、単にそれを理解させるだけでなく、彼らの心を動かし、その言外にあるものを追求するよう仕向ける上で、修辞、演出、脚色は、むしろ必要不可欠エッセンシャルなものなのである。
ポーは狂人の口真似が巧みなことで有名だ。しかし彼の狂おしい声は、今日の情報のメイルシュトロームのうちにあっては、確固たる信念の情緒的および美的メカニズムへの彼の洞察と、科学に対する彼の原則的な半信半疑アンビバレンス(その不完全さを認めながら、その実用的な成果を受け入れる)によって、驚くほど、いや清々しいばかりに、正常健全に響くのである。


<訳者注>

*1:拙訳をご参照ください。

*2:文壇デビュー前のポーは一時期ウエストポイントにある「陸軍士官学校(United States Military Academy; USMA)」に在学していたことがあるのですが、これはフランスの「エコール・ポリテクニーク(École Polytechnique)」をモデルとして建てられた理工科学校で、ここで当時世界最先端の科学的および技術的知識を身につけたことが「(ポーの)詩人、批評家、そして作家としてのキャリアを決定づけた」とするのが『夜の闇の理由』におけるトレシュ教授の主張です。

*3:『貝類学入門(The Conchologist's First Book)』初版1839年、再版1840年、第三版1845年。ポーが生前アメリカで出版した本の中で版を重ねたのはこの本だけだったそうです。

*4:青空文庫版が無料で読めます。

*5:拙訳をご参照ください。

*6:「軽気球虚報(The Balloon-Hoax)」。創元推理文庫版『ポオ小説全集 3 』に「軽気球夢譚」として収録。

*7:「ヴァルデマー氏の症例の真相(The Facts in the Case of M. Valdemar)」。「着地した鶏」さんによる邦訳が無料で公開されています。

*8:創元推理文庫版『ポオ小説全集 4 』に収録。

*9:創元推理文庫版『ポオ小説全集 1 』に収録。

*10:創元推理文庫版『ポオ小説全集 1 』に収録。

*11:創元推理文庫ポオ詩と詩論』に収録。