一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第八回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
義昭の帰京と光秀の懊悩
11月になったが、光秀は相変わらず忙しかった。村井貞勝の屋敷に日参し、山と積まれた書類(陳情書)に目を通して、村井に任せる案件と、自らが処理する案件とを振り分けていた。実は毛利家から織田家に将軍義昭を帰京させてもらえないかとの申し入れがあり、その書状が届いていました。既に書状を検閲した村井貞勝が「お主に任せる」と言うのです。諦めない征夷大将軍義昭は、槍を筆に持ち替えて陰謀を図ります。分厚い書状の内容は、京都に帰りたい希望を、毛利家の軍師安国寺と羽柴秀吉を通じて信長に伝えたが、光秀も背中を押してくれ(信長に口添えしてくれないか)とのことです。
相変わらず身勝手な上様だと思いつつも返書をしたためる光秀の心には、肉親と暮らした期間はごく僅かで、7歳で仏門に入った(将軍位に野心はなかった)ものの、実兄義輝が惨死したため還俗せざるを得ず、従兄弟の足利義親と将軍位を争い、義親の死後、ピンチヒッターとして、実践を経ることなく天下を治めることになった義昭の、誰にも解からない気持ちを思うと見捨てられない。今の主の信長は兎に角桁外れの人間で、旧習を否定して何をしたいのか自分には判らない。心の奥底深く消えることのない比叡山の焼き討ちを思い出すと、信長を信じ切れるのかとの迷いが出てきて、それが茫漠とした不安を光秀に生じさせるのでした。
そうこうする間に、羽柴秀吉と安国寺恵瓊の会談の場所は、堺の納屋衆、今井宗久の店に決まりました。実は宗久は信長に近く、又茶の湯を通じて義昭にも近侍していました。正にうってつけの空間です。
会談に出向いたのは、織田側はサル顔の羽柴秀吉、毛利側は義昭が「蛸壺に髭が生えている顔」と評した安国寺恵瓊です。
義昭は、ある意図をもって上野清信を供に会談にやって来ました。既に宗久が待っていて、丁寧に池の見える客室まで案内します。上野清信は入り口に控えます。
義昭は、二人が平伏して迎えると鷹揚に言います。
「苦しゅうない。面を上げるがよかろう」
秀吉は平伏したまま挨拶をします。
「わざわざお運びありがてぇことで。つきましては~」
義昭は内心手強い相手だと思う秀吉に、「朕が窮屈だから」と促すと、秀吉はほっとした顔をして平伏の姿勢を解きました。恵瓊は苦虫を噛み潰したような表情をしています。
会談に臨んだ秀吉と恵瓊は二人揃って義昭に懇願する。
「上様、何卒お考え直しを!」
「聞かぬ」
実は義昭はある狙いをもって織田家に条件を出したのです。敗者にもかかわらず、自分が京都で安泰に暮らせる保証として、信長に男子の人質を要求します。断固譲りません。当然の結果、交渉は決裂します。秀吉は一礼すると、宗久の店をそそくさと出ていきます。呆れ果てた恵瓊が、義昭に苦言を呈します。
「折角のお話を御自ら蹴ってしまわれるとは」
「其方の顔を潰して申し訳ないと思っているが、これも毛利家の為だ。将軍たる朕が織田家の風下に立てば、毛利家も自然と織田家の風下に立つことになる。それだけは何としても避けねばならぬ」
「それは詭弁ですな」
百戦錬磨の論客でもある恵瓊は更に遠慮なく言う。
「御身に関わっていると毛利まで織田を敵に廻すことになる。負けはしないが無用な戦はすべからず。何処へなりと落ちのびられよ」
恵瓊も言うだけ言うと、足音も荒く憤然と席を立ちます。上野清信は言います。
「全て上様の思惑通り事が進みましたな」
義昭は含み笑いをもって応えます。
わざと交渉を潰した義昭は、天正元年(1573年)11月9日、一行二十人と共に、船で堺を旅立ち、紀伊・由良にある興国寺に身を寄せることになりました。流浪の始まりです。
同年11月16日前後、若江城は猛将佐久間信盛に攻められ落城し、城主三好義継は切腹して果てます。
これによって、孤立した「端倪すべからざる人物」(ルイス・フロイスの評?)松永久秀は、12月、自らが縄張りをした、城門と櫓を一体化した鉄壁の防御を誇る多聞城を信長に差し出して、降伏します。松永久秀は実は茶人で、築城の名人でもありました。
義昭が紀州に流れて約1年後の天正2年9月、光秀は変わらず村井貞勝の補佐をそつなくこなしています。村井貞勝は、困惑の呈で言います。
「殿はまた将軍家を呼び戻そうとしている」
この頃の信長は、伊勢長島の一向一揆勢十万人を殲滅したばかりでした。恨みを買うこと頻繁の信長は、戦えば勝てるが、千人や二千人の叛乱を抑え込むことに嫌気がさしていました。まだ残存している畿内の本願寺門徒宗は義昭が上洛した折、一度は降伏したが、将軍に降伏したのであって、決して信長に降伏したのではないとの認識です。おまけにこの前の交渉不成立で、毛利家との間も気まずくなっています。この状況を挽回するために有効な手段は、上様を迎えて、織田家が折れた形を作ることです。村井貞勝は「私も忙しくなる故、上様のお守は任せる。よしなに頼む」と言うと去っていきました。
義昭の書状の内容は、光秀の栄達を喜ぶ由、信長が伊勢長島の一向一揆を根絶やしにしたことも当然のことと認識している、等々。上様はお心を入れ替えて下さった、自ら天下を統べる野心は捨てられたのか。光秀の心は、歓喜に輝いた。
次の瞬間、以前上様に、信長の下知を履き違えるなと励まされたことを思い出した。その次の瞬間には、比叡山の焼き討ちの有様がフラッシュバックして、光秀を襲ったのでした。光秀は、いや~な感覚が背筋を駆け抜け、ゾッと神経が毛羽立ちました。
“私は一体どうしてしまったのだろうか”(続く)