一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第七回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
醸成されてゆく心の毒
義昭の目論見通りに戦況は進みません。朝倉は出陣が遅れ、何故か武田は進軍しません。
西国の雄・毛利輝元は、下命は蹴らないが、形だけで援軍は寄越しません。
織田信長は、和議を求める一方で、3月29日、10,000余の大軍を率いて上洛します。さらに4月2日から4月4日まで、上京一帯を焼き討ちします。光秀とは違う意味で、比叡山の焼き討ちが頭から離れない義昭は、生きた心地がしません。消火活動や、延焼を防ぐための御所の近隣の建物の打ち壊しを真木嶋に命じます。町家や公家の屋敷を構わず打ち壊します。
4日に鎮火した頃には、辺り一面焼け野原で、何も視界を遮るものが無い有様でした。
やっと本願寺からの使者が義昭の元に戻ってきます。使者は恐るべき悪い報せを運んできました。
「武田信玄が陣を引きました。病篤い様子です」
何ということだ。義昭は天を仰ぎます。
「我らの勝ち目は消えた」真木嶋に命じます。「直ぐに主上の綸旨を取り付けて参れ」
4月7日、主上(正親町天皇)の勅使が御所と織田本陣を廻り、等分に起請文と人質を出し、和議は成った。
4月8日、信長は、義昭に暇乞いもせず、京都を去っていきました。細川藤孝が預かった織田家の人質の末の姫は、細川家中が無事織田家に送り返しました。
武田が進軍していれば、と言っても詮無い繰り言を言いながら、義昭は次の機会を窺います。
京都奉行として、上京焼き討ちの後始末に追われ、些か窶れた明智光秀を召し出します。
「忙しい中、呼び出してすまない」
「恐れ入ります。して今日のお話は何でしょうか?」
「弾正忠が余に目通りせず、美濃に帰ったのは、何か含むところがあるのか?」
「それはご無礼の段、平にお詫び申し上げます」
義昭は光秀にすがるような視線を向けて言います。ここからが演技派の本領発揮です。
「そういうことではないのだ。只余は将軍故に挙兵せざるをえなかった。弾正忠をよく思わない朝倉・三好・武田等を得心させなければならないのだ」
首座で深々と頭を下げ、更に言います。
「頼む光秀。弾正忠に取り成してくれぬか。この通りだ」
「上様おやめくだされ、その様な」
「どうか頼む。頼りは其方だけだ」
「お手をお上げください。上様の御為とあれば、主君弾正忠に取り成しましょう。但し某に何ほどのことができるか」
義昭は、袖で目元を拭い、声と身を震わせながら顔を上げた。義昭から見ると光秀は優しい表情をしていたが、何処かくるしげに見えた。光秀は知っている、信長のやり方をよく思わない者たちのために挙兵したとは言い訳なのだ。しかし律儀で、義昭と信長の橋渡し役をもって任じる光秀は、兎も角旧主を見捨てられなかった(義昭の思う壺)。
義昭は、比叡山の焼き討ち以後、信長を信じる光秀の心が弱っていくのを感じ取ると共に、光秀に注ぎ込んだ毒が、光秀の心を蝕んでいく手応えも感じ取りました。
二度目の挙兵
元亀4年7月3日、義昭は準備不足を承知で、二度目の挙兵をします。
御所は三淵藤英に任せ、自らは真木嶋昭光と共に宇治槙島城に立てこもるのです。
信長の背後を襲う協力者が得られない上での厳しい戦になるのは予想がつきます。
きっかけは、2ヶ月前の朝倉の透破の報告でした。いつも頭に血がのぼりやすい上野清信が取り次ぎました。透破の“鈴鹿の蛙丸”が打ち首になり、一条河原にさらされているとのこと(いつも義昭が天井越しにやり取りしていた透破です)。ギョッとした義昭は、何故名前が断定できるのか尋ねます。実は、甲賀の透破を束ねる和田惟長が確認しました(嘗てわざと討ち死にさせた和田惟正の嫡男です。あの世の惟正は何を思う)。
義昭は和田の透破に言います。
「義景殿に7月にも出陣あるべし、我らの共謀の織田に気取られたは間違い無しと伝えよ」
義昭は朝倉義景に、7月10日に出陣し、15日には近江に到着する約定を取り付けます。
義昭は、透破の蛙丸が口を割っていようといまいと、自分の底意を信長が知ったのは間違いない。座して死を待つよりは、打倒信長だと挙兵を決意します。
しかし、織田軍の動きは義昭の予想を超えて迅速でした。
義昭の挙兵後、僅か4日後の7月7日、織田軍は京都二条御所を急襲。暫く奮戦した三淵藤英も、7月10日には織田軍に降伏します。朝倉義景は進軍してきません。
宇治槙島城にいる義昭は、豪華な具足に烏帽子姿で織田軍と戦います。小姓の差し出す菊池槍を受け取り、大股で歩み、左手で狙いを定め、右手を捻りながら突き出し、雑兵の喉をとらえます。織田軍の突撃を、近習が盾で勢いを殺した後、義昭は槍で敵を叩き払います。己とて武士だ、このまま死んでなるものか。この動作を必死に幾度となく繰り返し戦います。真木嶋昭光の手勢も奮戦します。二の丸に陣取った弓方も奮戦します。しかし多勢に無勢、僅か200の義昭勢は次第に織田軍に押し込まれます。血まみれで鬼神のような真木嶋昭光が言います。「上様、もはやこれまで。館に戻られよ(=お腹を召されよ)」
其の時、信長の甲高い声がします。
「待て!」
義昭は槍を捨てて胸を張り、胡坐をかいて信長の前に座り込み、言います。
「これから腹を切る朕に何の用がある」
信長が苛立った声で言います。
「世を騒擾させる賊を成敗に来たのだ。自害などさせぬ」
信長は近くの黒母衣衆に目で合図します。黒母衣衆は刀の柄に手を掛けます。義昭は、誇りだけは失ってならぬと頭を垂れ、首を差し出します。そこへ、光秀が懇願します。
「お待ちください。この光秀が家中になれたのも、上様あればこそ。今こそ恩返しを」
「喧しい」
光秀の言葉の終わらないうちに、信長は光秀を睨みつけ、躊躇いなくフルボッコにします。容赦なく光秀を蹴飛ばします。光秀は、震えながら、体を起こそうとします。そこにへ「殿様待ってくれ」と羽柴秀吉の子供のように高い声がします。
「私のやり方に文句があるのか?」
「ありゃしませんが、短気は損気。将軍さまを打ち首にしたら、世の阿呆どもにアレコレ言われて損ですよ。皆戦い疲れています。この先を難しくすることなく、三好や朝倉に楽に勝つようにしましょうや、らく~に」
光秀の正論とは対照的に可笑しく、明るい話しぶりに信長は毒気を抜かれたのか、「任せる」と言います。
「こりゃありがたいお計らいで」
「但し、楽に勝てると言った朝倉や三人衆と無様に戦ったら、その時は、血を見るまで蹴飛ばすぞ」信長は言い捨てるとさっさと踵を返しました。
元亀4年7月18日、槙島城の戦いは、織田軍の圧倒的な勝利に終わりました。
敗者義昭は、秀吉の手勢に護送され、妹婿の三好義継を頼り、河内若江城へと落ちてゆきました。同時に2歳になる息子を織田家に人質として差し出しました(側室の産んだ男子、足利義尋?)。
義昭は自分の助命を嘆願をする光秀の姿を見て、生きている限り、天下を統べる夢をあきらめてはならない、と自分に言い聞かせるのでした(光秀の中で毒が培養されている)。
以後京都は、前長崎奉行の村井貞勝が、“天下所司代”として治めます。光秀は在京し、村井貞勝を輔弼すると共に、織田家中新参の荒木村重や、細川藤孝を差配する立場となりました(いつの間にか細川藤孝と光秀の立場が逆転していますね。光秀も織田家中では新参者です)。(続く)