魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の参)

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琵琶湖へと注ぐ姉川の河口。2006年撮影。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第三回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


金ヶ崎の退き陣

元亀元年(1570年)4月28日、信長は30,000の軍勢を以って、金ヶ崎城と手筒山城とを落城させます。しかしその後「まさかの坂」が出現します。義弟浅井長政が織田軍の背後を襲います。愚図愚図していると前方朝倉軍と後方浅井軍の挟み撃ちに遭います。浅井家との婚姻同盟は破れたのです。信長は、全軍に指令を出します。「ひたすら京へ駆けよ」「荷駄は捨てよ、具足は置いて行け。命あっての物種だ」敦賀から京都へと敗走します。強気の信長が肝を冷やした金ヶ崎の退き陣です。秀吉が殿軍を志願してやり遂げたことが有名ですが、同じくらい光秀も活躍しました。近辺の領主朽木元網の助力もあり、結果、無事京都へと帰還します。
義昭は、朝倉の言っていたのはこのことかと内心合点がゆくのですが、“狡兎死して走狗煮らる”の間柄なのだから致し方がないと思いつつも、切羽詰まった様子の細川藤孝の前では信長の安否を心配する芝居をします。
明智光秀や秀吉たちの殿軍が京都に帰還すると、既に人心地着いた信長は、敗走した割には小奇麗な身なりをして参上しますが、妙に冴えた眼差しには怒りが籠っていました。信長は、暇乞いの挨拶をして御所を辞去しますが、義昭は信長の目に闇を感じ取りました。

1570年6月、信長は、金ヶ崎の退き陣で損耗した兵の修復をしないまま、浅井攻めを敢行します。義昭は、一色藤長・三淵藤英(幕臣)や真木嶋昭光・上野清信たちと評定を開きます。徳川家の他に援軍のあてはなく、苦戦は必至であろうとの結論です(何故無理に出陣するのか?)。そこで、京都奉行の柴田勝家明智光秀を召し出します。織田家の宿老柴田勝家は「兵を損耗した織田軍が出陣するのは、三好三人衆が京都を狙っている以上、信長が随時駆け付けられるよう、京都迄の道を確保するためでござる」と申し開きします。光秀は出陣を知らなかったのですが、しかし律儀に言います「浅井を滅ぼす存念は無いものかと思われます」。義昭は「余は弾正忠殿が浅井への恨みを持ち、焦っての出陣かと案じていたが、取り越し苦労をしたな」「足利と織田のかすがいを務めるそなたが言うなら余は信じる」と言い切ります。暗に光秀に、信長の常人とは違った恨みを忘れぬ執念深さと、言いがかりをつけて相手の領地へ攻め込む癖とをほのめかします。
光秀は些か気後れして、いつになく一呼吸おくれながらも「浅井の裏切りは無念ではあるが、それで道を誤ることはありません」と申し述べます。心なしか、光秀の声に力がありません。義昭はダメ押しのように、柴田勝家に「今回の出陣は、越前攻めの恨みとは別である」と言わせます。又「天下の為に道を得るなら、余も応援するから思いっ切り戦うがよい」と勝家に伝言させます。勝家は「お言葉確かに、有難き幸せ」と意気揚々と辞去します。
光秀は穏やかながらも、曇った表情で辞去しました。
一人になった義昭は、朝倉義景からの密書を取り出して、自分たちの思惑通りに信長が出陣したことと、明智光秀の信長への思いが僅かに変化している兆しを看て取ったことで、満足気に含み笑いをするのでした。

姉川の戦い

1570年6月28日、姉川を挟んで、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の激闘が起こります。この戦いには決定的な勝者はいません。しいて言うなら、浅井家の猛将磯野員昌によって壊滅寸前にまで追い詰められた織田軍が、援軍の徳川軍に助けられて勝ちを拾った辛勝の形になりました。浅井家の居城の近くの横山城を落としたので戦の目的は果たせましたが、多数の兵の損耗は痛手でした。信長に参陣を約束しながら実行しなかった義昭は、その知らせを受けると一人で声を出さずに笑います。しかもその上義昭は、7月20日、大坂の摂津に攻め込み、野田福島に陣を張った三好三人衆を討つべく、信長に出陣を求めます。義昭は勿論、織田家の戦力が疲弊していること、自分が出陣するのが本筋であることを心得ています。
これらの戦はすべて、謀略にたけた朝倉義景と義昭の打ち合わせ済みです。織田家の戦力を徐々に削いでいく目的です。まず朝倉攻めで織田軍を疲弊させ、更に姉川の戦いの戦いで兵を多量に損耗させ、回復しない間に三好三人衆の征伐を信長に強いる作戦です(三好三人衆の襲撃は予定通り挙行されました)。
義昭は真木嶋昭光、細川藤孝和田惟政たちと軍議を開きながらも、“早う来や弾正”が本音なので動こうとしません。信長を畿内におびき寄せ、浅井・朝倉と包囲網を作り、締め上げて、やがて信長を仕留める算段をしているのです。
義昭は朝倉と通じ、その朝倉は三好三人衆と手を組んでいるので、戦わないといけない差し迫った理由はないのですが、信長に撒き餌をするため、畠山勢と戦い、睨み合いの状況を作り出します(三好三人衆も心得て力攻めはしません)。8月25日、信長は、8,000人の軍勢を率いて枚方に着陣します。ちなみに東海地方出身の筆者は「ひらかた」が読めませんでした。
8月30日、義昭は、4,000の軍勢に号令を下し、自らも具足姿で輿に乗ります。目指すは、摂津にある中島城です。還俗した義昭は乗馬できません。駿遠すんえん三河守護大名今川義元も、海道一の弓取りと称えられながら、同じ理由で乗馬はできませんでした。
義昭が中島城に入ると、既に信長が到着していて「此度はご出陣させてしまい、面目次第もない」と、静かだが焦燥感に捕らわれた様子で挨拶をします。義昭も「余の身を案じてそなたは出陣してくれた。余は出陣を労苦とは思わぬ」「有難きお言葉」穏やかに挨拶が終わります(義昭は、信長が長く京都を留守にできないことを知っている)。
義昭と信長は今の状況を長引かせない為にはどうしたらいいのか、知恵を絞ります。義昭は信長が快く同意しないのを知っていながら、自分はかつて本願寺と朝倉家の和議を仲介したことがあるから、本願寺法主顕如を味方につけると言います。信長は結局、背には腹は代えられず、同意します。しかしその本願寺一向宗門徒は、三好三人衆に味方し、織田軍が宿営するあたりの堤防を切る水攻めをします。海抜の低い地形を利用しての作戦です。それにより、織田軍は兵糧や武具が台無しになり、水に押し流されて泥まみれになった兵も多数あり、壊滅状態になりました。
織田軍壊滅との報告を受けた義昭は、怒りに震えながら、金切り声を上げて、上野清信に「顕如とは絶縁すると申し遅れ」と物凄い剣幕をぶつけます。上野清信が転がるように辞去するのを見届けて、義昭は、肩を小刻みに揺らしながら笑い、本願寺よ、よくぞやってくれたと喜びを表すのでした。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本