一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第十一回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
歴史の歯車は加速度的に回転する。
1580年1月(天正8年)、三木城の城主別所長治とその妻子、および伯父・叔父等一族が、僅かに残った兵の命と引き換えに切腹して果てました(享年26歳?)。
同年3月、とうとう本願寺が織田家に膝を屈して、石山を退去します。退去した大勢の門徒宗は無事に逃げ延びました。
同年9月、細川藤孝が当人と馬廻りだけを連れて息せき切ってやって来ました。光秀は余程の変事が起きたのだろうと察し、着替えもせず細川藤孝と面会します。織田家中に激震走る!佐久間信盛父子が高野山に追放されたとの凶報を運んできました。義昭京都追放のタイミングで出奔した細川藤孝は、この頃光秀の寄騎となり、丹波平定で活躍した軍功で宮津城城主となりました。
連歌師里村紹巴の書状に依ると信長が佐久間信盛に苛烈な“十九条の折檻状”を与えたとのことです。信長の言い分は、家中一番の待遇をしているのに、最近何の武功をも挙げていないではないか、です。斯くなる上は、晴れて敵を討って帰参するか、討ち死にするか、さもなければ、父子共に剃髪して高野山で許しを請い続けよ、です。佐久間盛重・信栄父子は高野山に逃れます(盛重は結局野垂れ死に同様な最期を遂げました。その後、信栄は赦免されて帰参します)。
この報せを聞いた光秀は恐懼し、自然と縁を切ったはずの義昭の言葉を反芻しました。
「人の目には弾正が執念深いと映るやも知れぬが、あの者が手管を選ばぬのはいつもの話よ」
疑念が沸き起こります。何故佐久間殿は信長に粛清されたのか?昔比叡山焼き討ちを断ったからだ。朝倉との決戦時の失態を咎められ、開き直って放言したからだ。過去に勘気を被ったからだ。
細川藤孝が言います。
「光秀殿、貴殿は上様の覚えめでたき身ゆえ、何の懸念もなかろう」
「紹巴殿の書状にも丹波平定の功績が最初に書かれている」
光秀はその言葉すら疑います。
否。自分は義昭に頼まれて何度も信長に諫言を吐いたのだ。お互いぎこちない笑みを交わしながら、細川藤孝は帰ってゆきました。胸に一度湧いた疑念は止まらず、吹き荒れます。
信長は何故、佐久間信盛を高野山に追放したか?筆者はここで次の3つの理由を考えます。
1)織田家中の引き締め政策を行うため。
2)佐久間盛重を老害と認定したため。
3)宿敵本願寺法主顕如が、石山を退去し、佐久間信盛に用がなくなった。
何れも織田家中に置いておく“必要”がなくなった佐久間信盛を有効利用する措置だと思います。
程なく荒木村重も降伏しました。この頃の織田軍の快進撃の勢いには手が付けられません。
1581年(天正9年)某月、薩摩の島津義久が織田信長と取り敢えずでも和睦を結びます。
そして6月、宇喜多直家が病没します。これに伴って嫡子秀家の後見役の秀吉が、備前岡山城を采配することになります。これにより毛利家の立場は一層苦しくなります。
1581年~1582年、信長はいよいよ武田家討伐に本腰を入れます。信玄亡き後、武田家の領国をかなり切り取りましたが、滅ぼさねばならない相手です。手始めに四郎勝頼に不満を持つ木曽義昌(正室は武田信玄の三女万理姫)の調略に成功します。また武田家親類衆筆頭穴山信君(正室は勝頼の異母姉)も勝頼を裏切ります。統制が取れない武田家は内憂外患の有様です。唯一味方の高遠城主仁科五郎盛信(信玄の五男、勝頼の異母弟)は、中将信忠の和睦の申し出を断り奮戦しますが、力尽き落城、自刃します。
1582年3月、追い詰められた勝頼は新府城から天目山迄逃げますが、些かの戦闘の後、自刃します。正室北条夫人(北条氏政の実妹、享年19歳)、嫡男の信勝と最後まで随き従った極少数の家臣も同じ運命です。これをもって20代連綿と続いた名門甲斐武田氏は滅亡します(詳しくは伊東潤『武田家滅亡』をお読みくださると幸甚です)。
この時点で信長にとって抵抗勢力は(四国の長宗我部家、毛利家以外?)ほぼ全滅しました。
3月29日、信長は、甲斐・信濃・駿河の仕置き(知行割)の為に諏訪大社上大社本宮の隣の法華寺に入りました。勿論光秀も帯同しています。
今や織田家に明智光秀ありと名を轟かせた光秀は、信長に戦勝祝いのことばを述べます。
「家臣たる我らも骨を折った甲斐がございました」
この一言が信長の逆鱗に触れます。
「お前“が”何をした」
と小さく嘆いた次の瞬間、怒りの沸点を超えた信長は光秀の横っ面を張ります。信長の拳(パンチ)がクリーン・ヒットします。鼻骨の折れる嫌な音がします。顔面血まみれの光秀はたまらず膝を突くと今度は肩を蹴飛ばされます。首根っこを掴まれ、引きずり回されます。さらには廊下の欄干に頭を叩きつけられます。信長になされるままになっている光秀には何故か分かりません。朦朧とする意識の中で信長の声を聴きます。
「お前“は”何をした」(続く)