一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第十回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
光秀、有岡城攻めに進軍
1576年(天正4年)、丹羽長秀を普請奉行として着工を開始した安土城は、その縄張りの広大さ故か、中々落成しません。それでも1579年、天守閣が完成し、信長は移り住みました。
安土城は、少し北に行けば長浜から北国街道に通じます。更に琵琶湖から乗船すれば、一日で京都に到着します。まさに要衝の地でした。
そこに召し出された光秀は、七層の天守を見上げて、城の豪華さ、壮大さに圧倒されながらも、何故か義昭のことを思い出します。義昭に対する失望感から受け取った書状は全部焼き捨てた今、割り切れない気持ちは、深呼吸と共に吐き出しました。
天守閣の広間には森蘭丸を従えた信長が、既に到着していました。時間を無駄にしない信長は早速、
「村重の謀反は聞き及んでおるか?」
「はい。某の目が行き届かず、お詫びのしようも・・・」実は荒木村重は、光秀の寄騎待遇だったのです。
「詫びは要らぬ。義昭が噛んでいるのであろう」
光秀は手を突いたまま、おそるおそる顔を上げます。長ったらしい話が嫌いなはずの信長が、光秀に謎かけのような作戦を諄々と説明します。これに閃かなかったら信長の部下は務まらない。勿論光秀は直ぐに反応する。
この頃の大阪・中国地方で本格的に信長に逆らう動きをしているのは、石山本願寺と毛利家でした。他はその時の勝ち馬に乗るような気配です。毛利輝元は、本願寺八代目法主顕如からの要請により、村上水軍を動員して、籠城する荒木村重に武具や兵糧を届けているのです。
つまり村上水軍の力を削げば、毛利家もダメージを受け、荒木村重を助ける余力がなくなります。その時こそ、光秀、お前の出番が来る。弱気になった荒木村重に降伏を勧め、生け捕りにするのだ。断じて殺してはならない。何故かは解りません。
同年4月、第一次木津川口の戦いで大敗を喫し、石山本願寺への補給路を認めてしまった信長は、負けた原因は敵方村上水軍の焙烙火矢(焙烙玉)の攻撃(火器)にあると分析して、燃えない船(鉄甲船)を建造し、1578年(天正6年)10月、第二次木津川口の戦いには圧勝しました。これにより本願寺と毛利家の連絡・往来は断たれました。これを好機と見た信長は光秀に出陣を命じます。
冬の寒空を物ともせず、光秀は手勢に号令した。
「敵は有岡城にいる。前進だ」
この時、既に秀吉は三木城を取り囲み、兵糧攻めをしています。陰惨な有様で有名な“三木城の干殺し”ですね。織田家の軍事力は強大ですね。複数の戦線を維持し、各個撃破できます。
その後光秀は、信長の気が変わったのか、有岡城攻めが長期戦になると予想したのか、一時丹波・丹後戦線に転戦します。光秀は順調に?八上城・黒井城を落城させ、丹波丹後を平定します。この軍功により、光秀は加増され、丹波34万石・福知山城主となりました。
義昭、切歯扼腕
1579年~1582年、歴史の歯車は悲鳴を上げながら、軋んだ音を立てて回転します。
1579年3月、義昭に武田四郎勝頼が毛利家との同盟を承知したとの報せが入ります。
これを吉報と受け取った義昭は、毛利輝元と小早川隆景に毛利が天下を取るチャンスが来たと報せを送り、秀吉勢を播州から蹴散らし、荒木村重に援軍を送る妄想を抱きます。
しかし6月、小松寺に参上した小早川隆景は、毛利家の実情を義昭に説きます。
先ず5月末、宇喜多直家が織田家に臣従を表明します。死病に罹った直家は、秀吉に息子秀家を託す形となりました。これはかなり痛いです。
更に伯耆の南条元続も毛利から離反しました。南条元続の領国の西端は、毛利の領国に通じているので毛利勢はいつ行軍の退き口を失うか分からないのが現状です。
小早川隆景は「我らは本願寺や荒木はもとより、播磨衆の味方さえ助けてはやれぬようになりました」の言葉を残し、大軍を引き上げていきました(自国を守るのが精一杯)。
根拠があるのか判らない足利将軍の血筋と権威と、元就公の頃からの変わらない西の大国毛利家とを未だに信じる義昭は、目を吊り上げて悔しがった後、呆然と小早川隆景を見送りました。同年9月、1年近く籠城し続けた荒木村重は、こともあろうに単騎有岡城を脱出して息子村次の居城の尼崎城に逃げ込みます。見捨てられた120人を超す家臣や女房衆は織田家の人質となりました。人質の運命は、周知の通り、第六天魔王・信長の一存で決まります。(続く)