魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の壱)

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(角川書店)を読了して。
この長編歴史小説は、戦国時代、明智十兵衛光秀を介して、足利義昭と織田弾正忠だんじょうのじょう信長がどの様な志を持ち、どの様にかかわったのか、それぞれ公家と武家の人生を歩んで何を成し遂げたのかを明らかにしてゆく、吉川よしかわ永青ながはるの最新作です。本能寺の変への道程・伏線も描かれています。
日本史の年代では、1562年(永禄5年)~1582年(天正10年)に焦点を当てています。戦国時代の中盤から終盤に差し掛かるころではないでしょうか。ここで、足利義昭のざっくりとした人となりを紹介します。

足利義昭・その人となり

乱世故、実兄第13代将軍足利義輝三好三人衆(三好長逸ながやす・三好宗渭そうい岩成友通)に惨殺され、奈良一乗院門跡もんぜきとして覚慶と名乗った身から還俗して義秋と称し、さらに越前国朝倉義景よしかげのもとで元服式を行なって義昭と名を変えた後(32歳)、征夷大将軍の位につくも、織田信長と決裂して追放され、以後自身を供奉ぐぶする武将と巡り合えず、流浪の身となり、“貧乏公方くぼう”と呼ばれた室町幕府第15代将軍足利義昭の今日まで知られざる面を描いています。義昭は、かつての足利家の威光しか持たない“貧乏公方”であるがゆえに、かえって自分に悪意を持って近ついてくる者を嗅ぎ分けられるある種の嗅覚を持つようになりました。環境が人を変えるのでしょうか?少し観相もするようです。義昭自身が知悉している公卿(近衛前久等)の手管を応用し、これと狙った人にじっくりと毒を吹きかける、毒を注ぐ、若しくは毒を以て毒を制する方法を実行します。義昭に目を付けられたのが、織田家では新参者ではあるが、驚異的な速さで出世している光秀でした。義昭は、信長に複雑な感情を持つ光秀を使嗾し、長い過程を経て、織田信長を弑逆させるまでに追い詰めて行きます。

光秀との出会い

この頃(義輝暗殺後)の覚慶の現状と言えば、朝廷から従五位じゅごい左馬頭さまのかみに叙任されるだけでも一苦労でした。吉田神社の吉田兼和けんわに仲介を依頼しました(左馬頭は足利家の家督相続人が就任する地位です。延長線上に征夷大将軍位があります)。当初、若狭国の守護で妹婿の武田義統よしむねを頼りますが、義統は自分の領地を守るのが精一杯で、覚慶を供奉して入洛じゅらくするつもりもないので、越前国守護大名朝倉義景を頼り流れてゆきます。そこで客分の明智光秀と出会います。光秀は朝倉家と足利家の連絡役を務めていました。1566年の出来事です。滋賀県守山市矢島で還俗して、足利義秋を名乗ります。光秀は、義秋の天下の静謐を願う志は、実現するかどうかはともかく、尊いと思い、喜んで仕えたいものだと願います。これと前後して、光秀は、生国美濃の伝手を生かし、浅井家と織田家の婚姻による同盟を斡旋し、成立させます。浅井家にとっては領国北近江を侵食する六角義賢よしかたの力を削ぐため、織田家は斎藤義龍よしたつ(信長にとっては舅・斎藤道三の仇)を締め上げるため、お互いにメリットがあります。花婿浅井賢政は賢の字を捨て、信長の長を得て長政と改名します。花嫁は、戦国一美女と謳われるお市の方(信長の実妹)です。
朝倉館で、光秀と巡り合った義秋は、使える人材と見込んで光秀をスカウトしたいのですが、何分金銭に余裕がないので、細川藤孝の領地を分け与える形で、足利家に召し抱えます。
織田家側も、足利家の窓口の細川藤孝と親しいことで、光秀に目を付けます。
朝倉義景が入洛の志を持たないことに失望した義秋は、朝倉家を見限り、織田家接触します。しかも、丁度足利義秋が入洛するための供奉の交渉を織田家に持ち掛けているタイミングなので、光秀の処遇について、両家に遺恨が生じないよう、体面を壊さないよう、上野清信の発案により、絶妙な(玉虫色の)解決策に行き当たります。即ち光秀の所属は足利家のままで、織田家から要請があった時に光秀を貸し出す方法に落ち着きます。光秀の願いは微妙な形で叶います。

信長との対面

1568年7月25日、既に義昭と改名していた義秋は、立政寺で織田信長と供奉の挨拶を兼ねて対面します。
上座から「義昭である。面を上げよ」
「はっ、織田弾正忠、信長にござる」と滞りなく済みました。
しかし、義昭の嗅覚は、初対面の信長を前にして、お市の方に似た瓜実顔の整った面差しながら、甲高い声とキツイ眼差しに、まるで人間ではないような何とも禍々しい引っ掛かりを感じます。
とはいえ、信長の武者姿や装束姿を見て、これなら十分武力の無い自分を支えてくれるだろうと安堵するのですが、何か義昭の知り難い奥深い所で信長に対する注意信号が鳴るのです。
1569年、足利義昭は信長に供奉され、入洛します。信長は三好三人衆を容赦なく蹴散らします。更に三好三人衆に担がれた第14代将軍足利義榮よしひで足利義輝の従兄弟)がまさかのタイミングで、29歳の若さで病死します。茶人としても有名な松永久秀大和国国主)は、自慢の名物茶入れ『九十九髪茄子つくもかみなす』を差し出して命乞いをするので、信長は許しました。
これによって義昭は、誰はばかることなく、山科やましな言継ときつぐ卿が携えた朝廷からの征夷大将軍の宣旨を受け取ることができました。入洛して本圀寺ほんこくじに居を求めます。この時の義昭の気持ちは、天下の静謐を保つ為には武力ではなく、所領の規模でもなく、幕府に貢献する者に対して正しく論功行賞を施す事によって、将軍位の下に束ねることができる。世を改めてみせる。その後のことはさして心配していなかったようです。

本圀寺の変

信長は光秀に命じます。「京都の奉行衆ぶぎょうしゅうと手を携え、上様を助けよ。もし本圀寺が襲われたときは直ちに知らせよ」です。信長は新御所の建築資材の手配の為に、一度京都を離れます。信長は光秀の使い方を心得ています(既に光秀を“この金柑頭きんかんあたま”呼ばわりしています)。
信長の命令により、光秀は織田家中で、木下藤吉郎丹羽長秀佐久間信盛村井貞勝等、重臣達と肩を並べるポジションに到達していました。1569年1月、案の定、予想より早く、所領の阿波から三好三人衆と斎藤龍興たつおきが8000の軍勢を率いて京都奪還に攻め寄せてきました。義昭・光秀側は、凡そ1500の軍勢です。幕臣真木嶋まきしま昭光あきみつ細川藤孝の異母兄・三淵藤英、また一色藤長らの加勢で、総計2000の軍勢となりました。しかし朱塗りの山門は見栄えはするが、周囲は板塀のみの堅牢とは言えない本圀寺で8000の大軍を迎え撃つ(しかも寄せ集めの兵で)という困難な状況が発生しました。
光秀が陣頭指揮を執ります。真木嶋の訓練された弓兵が、先陣の長槍の陣傘衆を射抜き、更に山門をこじ開けるための丸太を持った一組7~8人の足軽衆(約10組)が突撃してくると、一色藤長が各組に対して4人程の足軽を射抜き、丸太を持ち切れなくなった足軽衆はてんでんばらばらに逃げてゆく。それでも襲撃してくる20~30兵を三淵の兵が取り囲み、槍で刺す。このような戦法を日没まで繰り返し、8000の軍勢を退けるのに成功しました。
夕方前には、細川藤孝の援軍の知らせも入ります。光秀は長岡・勝竜寺城にいる細川藤孝に対し、本圀寺に入るにあたっては畿内から三好義継・池田勝正・伊丹親興ちかおきらを駆り出させ、総勢30000の軍勢で本圀寺に駆け付けました。おまけに忍者を使い、謀略戦を展開します。軍勢を80000と水増しし、更に将軍義昭を守れと檄を飛ばし、世論操作?を繰り広げます。
戦いが済んだ後、義昭による論功行賞が行われます。並み居る奉公衆ほうこうしゅうの中から、いの一番に名前を呼ばれた光秀は「この度は鬼神のごとき働きであった」と山城の久世くせに領地を与えられます(足利家の中での光秀の立場は、足軽衆で、低い身分です)。
此処にはじめて、世に明智十兵衛光秀ありと、日本史にその名前を刻むのでした。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本