
Light Bringerの「カルンシュタインの系譜」
Fuki嬢がわが国を代表するメタル・ロック・シンガーの一人であることくらい、私でも知っている。それにしても、これほどの人が、国内ではいまだに一介のアニソン歌手程度の評価しか受けていないように見えるのは、まことに不可解で、残念な話です。
で、この「カルンシュタインの系譜(The Race of the Family of Karnstein)」という楽曲ですが、これは吸血依存症の歌ですね。それにしても、何という堂々たる歌唱でしょうか。まるで越路吹雪だ。そうしてこの歌詞の内容ですが——小林秀雄は「感傷」という言葉を一貫して悪い意味で使っていたが、萩原朔太郎は「神は純一至高の感傷である」と書いた時、これを「詩」そのものを指す言葉として用いた。私も前回の記事で「すべての依存は悪である」などと偉そうなことをほざきましたけれども、この世がすべて「正」と「善」とで埋め尽くされてしまったら、そこにはもはや「詩」が介在する余地もないでしょう。「悪」があるからこそ「詩」がある、というのも、真理の一面と言えるかも知れません。
「甘ったれ人間」の末路
前回の記事で「甘ったれ人間」について、「このような人とは早めに手を切った方がいい」と書きましたが、わざわざ私が書くまでもなく、このような人からは、人は離れていくものです。自分をある程度コントロールできないと「人とつながる」ことはできません。
この本(松本俊彦監修『依存症がわかる本』講談社)のこの部分をもう一度読み返してみます。
人に依存するのは、決して悪いことではありません。むしろ安心して弱音を吐ける関係があるからこそ、健康で自立した生活が送れるのです。(P88)
他人との間に安定した関係を築けるのは、自分をある程度コントロールできる人だけです。これが一般に「徳性」と呼ばれるものです。自分を抑え、他人と適切な距離を保つすべを知っている人、言い換えれば高い徳性を持った「よく出来た人」だけが、他人と「安心して弱音を吐ける関係」を築くことができるのですね。そうして「類は友を呼ぶ」とのことわざ通り、こうした関係は広がっていく傾向がある。彼らは安定した人間関係の基盤の上で、お互いに安心して弱音を吐き合いながら励まし合い、「健康で自立した生活」を送る人々として、立派に社会に貢献していきます。
問題は、こうした人々の輪からはじき出されてしまう人たちです。もっとも、こうした人々の側からすれば「はじき出す」つもりなどないのでしょうが、何せこちらは他人と安定した関係を築くすべなど(先天的に、もしくは後天的に)知ることができずに来てしまった身の上なので、どうしても「はじき出される」ような形になるのですね。こうして「はじき出された」人たちも、何らかの形で人とつながっていないと、命に危険が及ぶ(これは誇張ではない)ことは本能的にわかるので、さまざまな手段で自己防衛を図ります。
たとえばSNSなどで愚痴を垂れ流すのも一つの手ではあります。ただ、不特定多数を相手に「本音」をさらけ出すのは一定のリスクが伴いますし、話し相手を選んでいるつもりでも、それがあくまでヴァーチャルなつながりである限り、やはりそこには限界があります。ネット上でいくら暴言を吐いてうっぷん晴らしをしたところで、すっきりするのはほんの束の間で、根本的な問題は何も解決しないことが多い。
こうした人たちは、次第に追い詰められていきます。気がつくと「安心して愚痴を言える相手」が周囲にいないばかりか、「自分の話に少しでも耳を傾けてくれる人」に一人としてめぐり会えないまま、一生を終わらなければならない状態に陥っているかも知れません。私見では、何か宗教的信念でも堅持していない限り、普通の人間には、こういう人生は耐えられません。したがって、どこかのタイミングで自死を選択することになるだろうと、私は想像します。
この本(松本俊彦監修『依存症がわかる本』講談社)には、こんな風にも書いてあります。
<人に頼れる社会になればみんなが生きやすくなる>(P98)
依存症者を断罪する人を増やすより、特定のものや行為に頼りきりになる前に声をかけてくれる人を増やしていくほうが、はるかに建設的です。(中略)
みんなが少しずつ、やさしい気持ちで人と接するようになり、ちょっとずつ頼り合える、人に頼ることを許容する社会になれば、みんなが生きやすくなります。みんなが生きやすい社会になれば、自ずと依存症は減っていくでしょう。
おわかりでしょうか。本当に救いの手が必要なのは、「やさしい気持ちで」「ちょっとずつ頼り合える」人々の輪に加わることのできない、それどころか、そこから(先天的、もしくは後天的要因によって)はじき出されてしまう人たち――すなわち、自分自身をコントロールする方法を知らず、他人と安定した関係を築くことのできない、そんな「甘ったれ人間」たちなんですね。まずそこに気づかない限り、「みんなが生きやすい社会」にもなりませんし、依存症も減らないだろうと私は思います。
たとえば凶悪な連続殺人事件などの場合で、主犯格の人間が、暴力などの不正な手段によって、周囲の人たちを奴隷のように服従させている例が見られますが、こうした主犯格の人間もおそらくこの「甘ったれ」タイプの人間で、放っておくと人がどんどん離れていって、一人ぼっちになってしまうので、一種の自己防衛として――自分自身を自死から守るために――いかなる手段に訴えてでも、周囲の人たちをつなぎとめておこうとするのでしょうね。
人を「依存体質」にする資本主義社会
ダラダラ書いてきましたが、残りはなるべく手短にまとめます。2022年に「吉野家」という外食チェーンの会社で「生娘シャブ漬け発言」なる事件がありました。
有名な事件なので、詳細は省きますが、この「失言」に対する批判は「人権侵害」「性差別」といった内容のものが多かったように記憶します。
さて、この「失言」をした人は(こちらの記事によると)「若い女性を狙ったマーケティング施策」について、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢・生娘な内に」自社製品の「中毒にする」と発言したという。
言うまでもなく、企業が成功するためには――この「自由競争」の世界で、企業が勝ち残っていくためには――できるだけ多くの消費者が、継続的に購入してくれる商品(あるいはサービス)を開発し、提供することを目指さなければなりません。消費者を「中毒」にすること――消費者を自社製品に「依存」させることは、現代の企業が生き残るための必須条件です。
断っておく必要もないかと思いますが、私はたとえば自社の飲食製品の中に、何か依存性のある薬物を混ぜておくというような、コンプライアンスに反した手法のことを言っているのではありません。本当に頭のいい人はそんなやり方はしません。現代の高度な商品開発技術、そしてあきれるほど精緻なマーケティング手法は、「右も左もわからない」われわれ一般消費者のあらゆる心の隙を狙っており、われわれはほとんど防戦不可能な状態に置かれています。
よく「需要を掘り起こす」という言い回しが使われますが、これは企業側から見た言い方で、消費者側から言うと「要らぬものを買わされる」ということになります。戦後の復興期においては、われわれは生活に必要なものを作って売るだけで精いっぱいだった。ところがあっという間に国内市場は飽和状態となり、各企業は生き残りを賭けて、必ずしも必要のないものを何とかして売りつけようと、知恵を絞り、しのぎを削る有様となった。この目標を追究するために、人類の英知が結集されているかにも見えるほどです。何せわれわれよりもはるかに優秀な人たちが、束になってこの問題に取り組んでいるのですから、われわれ消費者には手も足も出るわけがありません。
こうしてわれわれは、本来不要なものを、欲しいと思わせられ、必要と思わせられ、なくてはならぬものと思わせられているわけですね。しかもこのような一種の「洗脳」が、いかなる詐欺的手法にもよらず、担当省庁の監視のもと、完全に合法的に行なわれるのですから、たまったものではありません。「お客様のご満足を第一に」と企業は謳う。だがおそらく、企業側の本音としては、お客様が「満足」するだけでは足りず、お客様が自社の製品をすっかり気に入って、次回もまた買おう、ずっと継続して買い続けよう、と考えてくれることが望ましいのではないか。彼らはお客様を「満足」させたいのではなく、「依存」させたいのではないか?それが本音ではないのか?とも思われます。おまけに「マイブーム」だとか「推し活」だとか、変な言葉を流行らせて、メディアが「依存」を後押ししている始末ですから、これはもう社会構造的に、われわれは何かに依存せざるを得ない状態に置かれているのですね。
私の言いたいことが、そろそろわかっていただけたでしょうか。現代の極度に成熟した資本主義社会においては、消費者が「依存体質」である方が、企業側にとっては商売がしやすいのです。消費者に「生きづらさ」を抱えていてもらった方が都合がいいのです。無論、消費者が本格的に「依存症」を発症して、生活が破綻してしまっては困るのですが、あれやこれやに寄っかかり、何とかかんとか精神の安定を保っている、言わば「依存症予備軍」のような人たちがたくさんいる方が、「購買層」の開拓がしやすいのですね。半病人くらいがぼろもうけにもってこいなのです。
ここでこの本(松本俊彦監修『依存症がわかる本』講談社)の「まえがき」に松本先生が書かれた言葉をもう一度読み返してみます。いわく、
「依存症は解決可能な問題である」
もし私が上に書いたようなことが本当なら――というのはつまり、現代社会は構造的に、人を依存体質にするようにできているのだとすれば――「依存症は解決可能な問題だ」などとは、私にはとても思えませんね。依存はすべての現代人を脅かしている現代病であり、社会体制がひっくり返らないかぎり、われわれは個々の意志の力でこれに抵抗していくしかありません。