魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

依存と資本主義社会(前編)

DOLL PARTSのアルバム『B.O.G "Bragging out garbage"』のジャケット。amazon.co.jpより。

DOLL PARTSの「支配」


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恋愛依存症の歌ですね。こちらの記事でご紹介した楽曲の歌詞の内容と、一脈通じるところがあります。
世の中には依存体質の人がいる。そうしてこの依存体質の人というのは、例外なく、何かしら内面的に問題を持っている。今風に言えば「生きづらさ」を抱えて生きているわけです。そうしてこの弱肉強食の資本主義社会では、「生きづらさ」を抱えて生きている人、すなわち依存体質の人というのは、どうしても他人や企業の食い物にされやすい。そういうお話を、今から順を追って進めてまいります。

「よい依存」とは?

松本俊彦監修『依存症がわかる本』(講談社、2021年)を読む。
これは良書だと思うので、とりあえずご一読をお薦めしておきます。その上で、疑問に感じた点を幾つか指摘します。

この本の考え方は、冒頭の「まえがき」(P1)において、はっきりと表明されている。以下引用。

「依存症」とは紛らわしい言葉です。あたかも「依存」が悪であるかのような誤解を招きます。曰く、「自立しなさい」「人に頼ってはいけない、迷惑をかけてはいけない」……などなど。
違うのです。そもそも、人はなにかに依存しないではいられない生きものです。朝、出勤前にコーヒーを飲み、休憩時間に紅茶とチョコで一服し、仕事帰りの電車でスマホゲームに没頭し、帰宅後にビールを喉に流し込みつつ、家族や友人、恋人に愚痴をこぼす……。そのようにして私たちは日々を生き延びています――そう、さまざまな物質や娯楽、そしてとりわけ身近な人とのつながりに依存しながら。これは依存症とは言いません。
考えてもみてください。アルコールやパチンコ、ゲーム経験者の大半は依存症にはなりません。意外に思うでしょうが、麻薬や覚醒剤でさえそうなのです。(中略)
では、依存症になるのはどのような人なのでしょうか?――それは、つらい気持ちを抱えている人や苛酷な環境・状況にいる人、あるいは、「自分には価値がない」「どこにも居場所がない」と感じている人、そして、それにかかわらず、だれかに助けを求めることなく、物質や娯楽といった「モノ」だけで心の痛みをコントロールしようとする人です。おそらく彼らはいずれ「モノ」のコントロールを失い、健康や家族、友人、仕事を失う危機に瀕するでしょう。
その意味で、依存症とは「ヒト」に依存できない病気ともいえます。それなのに、頭ごなしに「ダメ。ゼッタイ。」などといわれれば、恥辱感や罪悪感からますます「ヒト」に依存できなくなります。その結果、「モノ」の苦痛緩和効果で一時しのぎする生き方にしがみついたまま、いっそう孤立を深めてしまいます。

そして「依存症は解決可能な問題である」と締め括られている。ちなみに、この本自体は「松本俊彦監修」となっているので、松本俊彦先生自身の著書ではないのでしょうが、この「まえがき」の部分は先生自身の署名があるので、先生自身が書かれたかと思われます。
さて、この「まえがき」では「人はなにかに依存しないではいられない生きもの」だとして、コーヒーだとか、ビールだとか、幾つか例が挙がっておりますが、このような依存対象は、第一章「『依存症』とはなにか」の最初のセクション(P10)においては、「よい依存」の対象だとされている。

<少しずつなら「よい依存」>
気持ちを切り替え、仕事や勉強のパフォーマンスを維持するために役立っているなら、ただちに悪いものとはいえません。依存は依存でも、「よい依存」と考えてよいでしょう。

これに対して「悪い依存」とは何か。同じ章の次のセクション(P12)において、「適切な範囲を明らかに超えている」「生活にマイナスの影響が生じている」「自分ではコントロールがきかない」等々の病的な兆候が表れ、「依存的な行動が、『よい依存』の範囲にとどまっていればよいのですが、『それだけ』に一点集中し、生活のバランスも、心のバランスもとりにくくなっているようなら」「もはや『よい依存』とはいえ」ないから、「悪い依存」だと言う。
こういう考え方については、以前、こちらの記事で、アンナ・レンブケ著『ドーパミン中毒』(新潮選書)という本について書いた時に、触れたことがあります。その頃は私自身「心の強い人とは、要するに、小さな依存先をたくさん持つことで、リスクを分散して生きている人のことではないか」と考えていたのですが、今は少し考えが変わって、「『よい依存』などというものはない」「すべての依存は悪である」と思うようになりました。
確かにコーヒーやビールくらいなら、問題視するほどでもないような気もしますが、たとえば世の中には自動二輪車による暴走行為に依存する者もいれば、ネット上での誹謗中傷等の攻撃的行動に依存する者もいる。しかもこういう連中は、その場を離れれば、何食わぬ顔をして、ごく普通の社会人を演じている。ならばこのような依存は、この本に書いてあるように「気持ちを切り替え、仕事や勉強のパフォーマンスを維持するために役立っている」のだから、「よい依存」として見過ごしていいものなのか。私にはそうは思えません。
あの、誤解しないでほしいのですが、私は何も暴走族やネット中毒患者たちに説教がしたいのではない。ただこうした依存的行動の根底には、依存症患者と同様の「生きづらさ」がひそんでいることを見落としてはならない、と言いたいのです。依存症の根底には「苦痛」がある。これはこの本の中で繰り返し強調されている点です。

苦痛をかかえ続け、生きづらさを感じている人ほど、人に頼らず自分だけで苦痛に対処しようとしがちです。苦痛への対処法として、依存が始まっていくこともあります。(P24)

人は本来、飽きっぽいものです。快楽を得るだけが目的の行動には、一時は夢中になっていてもそのうち飽きが生じ、別の何かに関心が移るのが通常のパターンです。
しかし、「これをすると苦痛がやわらぐ」というものに飽きることはありません。依存対象となっているものや行為が、本人にとって自分のつらさを取り除いてくれる特効薬として機能していれば、簡単には手放せなくなります。(P23)

この「生きづらさ」、すなわち「生存していること自体が苦痛だ」という感覚、これ自体を何とかしない限り、依存先を分散しようが、一点集中で依存しようが、心が病んでいることに何の変わりもありません。卜部うらべ兼好のいわゆる「存命のよろこび、日々楽しまざらんや」という境地に達することはできないのです。これに近づくには、何よりもまず「万事たのむべからず」と自分自身に言い聞かせ、すべての依存を断ち切ろうとする覚悟が必要なのではないでしょうか。

とりわけ危険な「人への依存」

この本(松本俊彦監修『依存症がわかる本』)の中で、私がとりわけ不可解というか、「おめでたい」と感じるのは、依存を予防したり、依存から脱却したりする方法として、人に頼ったり、甘えたりすることを奨励している点です(ちなみにこの本の中では「甘え」という言葉は一切使われておりません)。

<愚痴やぼやきを聞いてもらう>(P11)
家族や友人、恋人など、身近な人に、愚痴ったりぼやいたりして、心のバランスを保っている人もいるでしょう。いやな気持ちを吐き出せる、受け止めてくれる人の存在は、大きな癒やしになります。

<安心して弱音を吐ける関係が最大の支えになる>(P88)
ものや行為に頼る人は、基本的に弱音を吐くのがうまくありません。本当は傷ついたり、落ち込んだりしていても、愚痴をこぼさず踏ん張り続けようとします。しかし、心のモヤモヤは、がんばれば消せるというものではありません。それでも人に頼らない、頼れないから、特定のものや行為に頼りきりになりやすいのです。(中略)
人に依存するのは、決して悪いことではありません。むしろ安心して弱音を吐ける関係があるからこそ、健康で自立した生活が送れるのです。
愚痴を言う、その愚痴を「泣き言を言うな」「自己責任だ」などと言わずに耳を傾ける。そうしたことができる関係が広がっていけば、ものや行為に依存することなく過ごしやすくなっていくでしょう。

皆さんにも経験があるかと思いますが、世の中にはとにかく人に頼ること、人に甘えることしか頭にないかのように見える人がいます。たとえば友人や恋人と二人っきりになると、感情にまかせて延々と愚痴を垂れ流す。そうして相手が迷惑そうな顔をすると「薄情だ」と言って逆ギレする。「あなたは友人(もしくは恋人)なのだから、親身になって話を聞くのは当たり前でしょう?」というのが当人の言い分です。これが本当に友人同士、あるいは恋人同士の場合であればまだしもですが、まだ友人にも恋人にもなった覚えのない相手を捕まえてまで、同様のうっぷん晴らしをしようとする人もいます。「自分の話を聞いてもらいたい」という欲望は、適切な相手がいるといないとにかかわらず、おのずと湧き上がってくるものだからです。
このような人のことを、ここでは仮に「甘ったれ人間」と呼んでおきます。このような「甘ったれ人間」との不毛な関係は、早めに清算するに越したことはありません。深みにハマるとロクなことはないからです。というような処世術は、われわれのような年代の者はすでに身に着けているのが普通ですが、まだ経験のない若い人は、一度は痛い目に会っておくのもよいかも知れません。それはともかく、この「甘え」という言葉について、今ちょっとネットで検索してみますと、近ごろ専門家の間では、これに上で触れた「よい依存」のようなポジティブな意味合いを付与する場合が多いようです。あるいはそのような学説が今のトレンドなのかも知れませんね。だがそんな学説が流行ろうが流行るまいが、「甘え」という日本語に、もともとそんな有難い意味はない。それはわれわれ日本人が日常会話で「甘ったれるな!」という風に使う際の、他人に対する依存――それも「依存症」のような形で表面化することが少ない分、ある意味でより悪質な依存――を指す言葉です。自分の精神を安定させるために、他人を利用する。それは一概に間違っているとは言えないが、代償を支払わなければなりません。

「愚痴を聞いてくれる人」は果たしていい人か?

逆の立場から考えてみましょう。あなたの愚痴を聞いてくれる人は、果たしてあなたのことを本当に大切に思っている人でしょうか?もちろんあなたのことを本当に大切に思っていて、心から心配しながら聞いてくれる人もいます。だがこれもある程度年齢を重ねた人なら、そういう人ばかりではないことは、経験上ご存じでしょう。
他人の愚痴を聞くというのは、結構骨の折れる仕事なので、心からこちらのことを心配してくれている人でない場合は、それとは別の何らかのメリットを求めている場合が多い。他方、われわれは愚痴を聞いてくれる相手に対して、どうしても無防備になる傾向がある。たとえばこの本を書いた人であれば、患者の話を聞くのは「治療のため」ですね。こちらの記事で触れた中村淳彦あつひこ氏のようなルポライターの場合は、「売れる記事を書くため」というのが、話を聞く目的です。ただ同じ記事で触れた通り、精神的に追い詰められた人の話を聞くことは、自分自身の精神状態を危険にさらすことでもある。中村氏の場合はそこまで踏み込んで「傾聴」されるので、良心的な仕事の仕方だと思います。
さて、以上のような、精神科医による、あるいは著述家による「傾聴」の手法というのは、実は今日では割とありふれた恋愛テクニックとして、インターネットを通じて非常に広く流布しております。よくは知りませんが、これを流行らせたのは夜の街で働くホストたちでしょうか?彼らは女性の愚痴を徹底的に聞くことで、女性を無防備にし、恋愛感情を抱かせて、店に通わせる。それは彼らの仕事そのものなので、われわれ素人が簡単に真似できるとも思えませんが、からだ目的で女性に近づく際に、この手法を応用しようとする素人男性も存在するらしい。
今年(2025年)6月、座間9人殺害事件の白石隆浩死刑囚の死刑が執行されましたね。私はこの事件について少し調べたことがあり、本格的に書き出すと長くなるのですが、かいつまんで申しますと、この白石死刑囚という人は、先天的な異常性格者などでは全然なく、ごく普通の人が一歩間違うとこうなるという、ある意味で恐るべき実例と言える人です。イケメンで、人当たりもいい彼は、風俗業界のスカウトとして、実に多くの若い女性を口説き落としてきた。その経験から、彼は「自殺願望のある女の子は落としやすい」という事実に気づき、「一緒に死にませんか」という広告をSNSに出すことを決心するのですが、望外の成功を収めた結果、歯止めが効かなくなってしまった、というのが本当のところです。愚痴を言ったり、悩みを打ち明けたりする場合は、よほど相手を選ばなければなりません。(続く)