7)「元気の塊」である
富江さんが持つ最後のもっとも決定的な特徴とは、彼女が「元気の塊」であるという点です。
この富江と呼ばれる怪物の最大の特徴は、他の怪物、たとえば「吸血鬼」と比較するとよく理解できます。富江と「吸血鬼」とは似ている点もある――たとえば「不老不死」であるとか、「永遠の美貌」の持ち主であるとか。しかし両者はその生態において決定的に異なっております。「吸血鬼」と呼ばれる連中は、常に他者に依存しております。彼らは人様のエネルギーを食いものにすることによって、みずからの生命を維持しているのであります。彼らは常時エネルギー欠乏状態にある――これは富江さんとはまさに正反対の状態です。富江とは、私見では、常に過剰な生命力の統制に苦しんでいる存在であり、もはや他者に殺害されることによってしか、その横溢する精力を処理できない人であります。彼女の肉体を構成する細胞のひとつひとつは、万病に打ち克ち、あらゆる損傷をみずから修復し、際限なく「自分自身」を取り戻す力を持っている。仮に「吸血鬼」を100%依存的な「負」の存在と呼ぶとすれば、富江さんは100%自立した「正」の存在と言えると思います。
コミック版から一例をあげます。ある病院に、重い腎臓病をわずらう少女が入院していた(仮にA子さんとします)。そこの院長先生は、A子さんを救うには腎臓移植が必要だとひそかに確信していた。ある夜、容態が急変し、A子さんの生命はきわめて危うい状態となる。人工透析の準備に追われる院長先生に向かってA子さんは言う。
「院長先生、ほっといて。私もうどうなってもいいの」
「ばか、死ぬな」と院長先生は答える。さりげない描写ですが、涙を誘うものがあります。
そこへ路上でボーイフレンドに刺されたという、ちょうどA子さんと同じ年ごろの若い女性の救急患者(仮にB子さんとします)が運ばれてくる。見れば全身めった刺しで、すでに事切れている。院長先生はこのB子さんの腎臓をA子さんに移植してはと思いつく。そこへB子さんの父親と名乗る男がふらりと現われまして「どうぞどうぞ、使ってやって下さい。B子もよろこぶことでしょう」。現実にはとてもありえないことと思いますが、一刻の猶予もならぬ中、とにかく遺族の了承を得たと言うことで、院長先生は移植を敢行します。
ところがこの移植された腎臓はまもなく異常に肥大しはじめ、A子さんはふたたび重篤な容態に陥ります。それは人間の腎臓ではなかった――実は「富江」の腎臓だったというわけです。いったん移植した腎臓をあわてて摘出しながら先生は自分を責める。何もかも俺の責任だ。A子さんはきっと死ぬだろう。ところがその後A子さんは死ぬどころか、めきめきと回復し、のみならず背はすらりと伸び、肌は透き通るように白くなり、髪は「みどりの黒髪」と変じ、それとともに例の泣きぼくろが左目の下に現われまして、全体として別人のように美しくなった。また同時にあれほど健気でしおらしく、可憐だった性格が、日に日に横柄に、尊大になりまして、遂にはみずから「富江」と名乗るようになり、ある夜、火事のどさくさに紛れて、まんまと病院を脱走してしまいます。
この挿話の暗示するところによれば、富江さんの肉体の一部をみずからの肉体に取り込むことは、彼女の無限の生命力の一部をみずからのものとすることだと言ってよさそうです。もっともそれで「富江化」してしまったら終わりですが。たとえば彼女の爪の垢でも煎じて飲むことが出来れば、われわれは一生病気知らずでいられるのではないでしょうか。
ふりかえって考えてみますと、われわれ現代の日本人は総じて活気を失っていく傾向にあるように思います。すぐにはお金にならない地道な努力の積み重ねよりも、たとえば経済効果何兆円というような巨大なプロジェクトの方に心惹かれてしまうのも、そんな馬鹿げた「夢」でも見ていなければ、みずからを奮い立たせる気力が残っていない、ということなのかも知れません。近ごろ「元気をもらう」というような奇妙な言い回しが流行りますね。こんな言い回しは私が幼い頃にはありませんでした。要するにみんな元気がないから、誰かに元気をもらわなければ生きていけないというわけでしょうか。われわれは今まさに「総吸血鬼化」しつつあるのです。
このように考えてまいりますと、富江さんの存在意義の大きさがあらためて理解できます。われわれは何とかして「富江」さんたちとの間に友好的な関係を築き上げ、彼女たちの生命力の平和的活用の道を探らなければなりません。それでこそわれわれはこの愚かしい現代社会の目にも止まらぬ速さで変動するかりそめの諸価値に対して、時代を超えて永続する真の一価値を提示する力を得ることが可能となるでしょう。
以上で富江さんの諸特徴の分析を終わり、彼女を扱った個々の映像作品のご紹介に移りたいと思います。