魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

川上富江さんの写真うつりが悪い件およびその他(3)

富江笑い」というものが存在するような気がします。「おーっほほほ!」というようなお上品(?)なものではなく、「あーっははは!」といった一種の豪傑笑いです。一般に男性の愚かさ、浅ましさをあざ笑う際に用いられ、これを目の前でやられた大概の男性は「何がそんなに可笑しいんだ?殺してやる!」となるらしい。ちなみに映画版では『富江ービギニング』の松本莉緒の「富江笑い」が豪快で、印象に残っております。では先を続けます。

6)富江富江は仲が悪い

富江さんは全国各地に分身がいる」と書きました。理由は簡単で、富江さんは次第に数を増していく傾向があるからです。
富江さんは出てくると必ず殺されます。そして殺した男は、何故か知らんが、ほとんどの場合、死体を寸断しようとする。たとえば彼女の死体を首、胴、両手、両足の六つのパーツに分断したとします。この六つのパーツのそれぞれが、その足りない部分を再生しようとしますので、ここに六人の富江さんが誕生します。そしてこの六人の富江さんがまた新たな男をひっかけて自分を殺させ、その男は(恐らく富江さんの思惑通り)彼女をバラバラにしてしまうので、富江さんの分身の数は爆発的に増えていきます。
したがって、ある朝目を覚ましてみると、日本中が富江だらけになっていた、ということもありえます。私が時々空想するのは、富江さんは自分の分身たちが今どこで何をしているか、だいたい把握しているようなので、もっとこまめに連絡を取り合い、年に一度は大きなレストランなどを借り切って(彼女がお金に困るなんてことはありえませんから)、男子禁制の「富江パーティ」を開いてみてはどうか、ということです。会場を埋め尽くす同じ顔をした美少女たち。さぞかし壮観でしょう。
しかし、こうはならない。なぜなら富江さんの分身たちはお互いにあまり仲がよくないからです。どの分身も自分こそ本物の富江であり、他の富江はすべてニセモノだと考えている。ここで富江さんの持って生まれた「人命軽視」の考え方が、他の富江たちを見る際にも適応されまして、気に入らない「富江」は抹殺してもかまわないとされる。この場合、相手は「自分自身」ということで、さすがに急所をわきまえておりまして、もっとも再生の困難な方法で抹殺する。ために富江さんの分身の数は増えすぎるということもなく、一定の水準に保たれているもののようです。
ここで何度考えても面白いのは、いくら数が増えても、彼女たちはやっぱり「川上富江」という一個体だ、という点です。ただ単に顔がそっくりとか、性格が似ているとかのレベルではない。彼女たちは同じ記憶を共有している。それも「前世の記憶」というような曖昧なものではなく、後天的に得られたもっとはっきりした情報を共有しているのです。彼女の記憶力はそれこそ超人的で、かつて誘惑したすべての男性の顔を覚えているのではないかと思われるほどですが、そんな莫大な情報を彼女の分身たちはすべて受け継いでおり、しかも新たに得られた情報もただちに共有される。彼女たちは確かに別々の人格ですが、根底でつながっているのです。
たとえば「富江」という大きな海があったとすれば、個々の富江はそこに浮かんでは消える白いうたかたといったところでしょうか。あるいは「富江」というサーバーがあって、個々の富江はそこにつながれた端末だ、とも言える。ただコンピューターの場合、サーバーを通じて端末同士で連絡を取り合うことができる場合もあるかと思いますが、富江さんの世界ではそれは出来ない。富江さんと富江さんとの間にいわゆる「テレパシー」のようなものは存在しません。ただ相手が自分自身なので、考えていることはだいたい見当がつく、といった程度です。
以上の様な情報の共有の仕方は、もともと富江でない女性が富江化する場合も同様で、何かの拍子に(たとえば富江さんが使っていた口紅をこっそり着けてみたりした場合に)「富江ウィルス」(?)が体内に入り込み、富江でない人が富江化することがあります。髪は「みどりの黒髪」となり、肌は透き通るように白くなり、背筋はすらりと伸びるとともに、左目の下にほくろが現われて、やがて彼女は呟く。「思い出した。わたしの名は富江よ」。これは彼女の脳味噌が「富江サーバー」につながったことを示しています。この左目の下のほくろが「富江化」の一つの目安で、たとえばあなたの彼女、あるいは奥さん、あるいは娘さんの左目の下に突如としてほくろが現われた場合は要注意です。