一天一笑さんによる葉室麟の歴史小説『墨龍賦』の紹介記事、第五回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
春日局は語る⑪狩野永徳と袂を分かつ
京都の狩野屋敷に戻った友松は、京都の人心の動きにスッキリしない日々を送ります。そんな時、友松は安土城から帰ってきた疲労困憊の態の永徳と正面衝突してしまいます。
前から二人の間には火種がありました。精魂込めた安土城の襖絵や障壁画等が燃失し、気が立っているタイミングで、お互い口に出したら元に戻れない言葉の応酬をします。友松も人の痛い所を遠慮なく突きます。
永徳「安土城が焼かれて、私が描いた襖絵も灰になってしまった」
友松「それは、お気の毒さまでございました」
永徳「権力者にすり寄って絵を描くから、そんな目に会うと言いたいのか?」
友松「滅相もない。ただ狩野派は天下人の為に描き、天下人と共に滅ぶ運命でしょう」
永徳「何を言う。信長が滅びても狩野派は滅びないぞ」
友松「ではこれからは、永徳様は、美しさのわからない秀吉の為に描くのですか?」
永徳「天下人が誰であっても、私に絵を描かせてくれたらそれでいい。それでこそ、幕府の御用絵師の狩野派は生き残れるのだ」
友松「では、永徳様は絵の為ではなく、狩野家の為に生きておられるのですね?」
永徳「狩野家の為に生きることが、絵の為に生きることになるのだ。狩野の血脈でないお前にはわからない」
友松「如何にも。狩野の血を持たない私がここに居る謂れはありません。本日限りで狩野一門を出ます。長年お世話になりました」
永徳「分かった。ただし生半可なことでは絵師として生きてゆけないぞ。破門はしない。どこにいても狩野派の絵師を名乗って生きろ」
永徳は友松に手を振り、友松は永徳にお辞儀をします。別れ際にも友松は言います。
「覇王信長は美しいものがわかる男でした。信長のために永徳様が仕上げた、豪華絢爛たる絵の見事さに心を打たれました。しかし新たな天下人の為の永徳様の絵は見たいとは思いません」
永徳は何も言わず、庭に視線を向け、物思いに耽っていました。
永徳も、自分自身の描きたい絵と、幕府の御用絵師・狩野派として描く絵との相克に鬱々としていたのかもしれません。しかし多くの狩野派門人達を路頭に迷わせるわけにはいかない事情もあります。そして幼少から教育されているのだから、それぐらい描けて当然という周囲の反応。個性ではなく形を真似よ等、誰にも解らない永徳の懊悩。かたや友松にはその様な縛りがない。天涯孤独の身の上で、狩野派に収まらない絵を描く自由のある友松が、永徳には羨ましかったのかもしれません。破門しないことが、永徳の友松に対するせめてもの心遣いだったのでしょう。
狩野屋敷を出た友松は、真如堂を訪ねます。真如堂の住職・東陽坊長盛とはかねてからの、茶の湯を通じての友人でした。60歳を過ぎても矍鑠とし、胆力・気骨共に充実している人物です。
早速世話になる仁義を切った後、どうしても光秀主従敗死の件が二人の話題になります。
春日局は語る⑫内蔵助の遺骸を奪還
どうしても、見物人に混じって、光秀主従の首級や粟田口の遺骸を見に行く気がしない友松に、長盛はゆっくりと説きます(友松が以前僧侶だった事を長盛は承知しています)。
「かつて僧侶だったそなたなら、友人の斎藤殿の遺骸から目を背けてはならぬ。仏の教えは、人が生きる美しさを追うのではなく、無惨な遺骸を、たじろがずに見るところから始まるのではないのかな」
友松は、目が覚めた思いでした。「私は絵師となってから、美しい物しか見ないようにして過ごしてきました。そのことに、今気が付きました。今すぐ出発します」と玄関を出ます。
本能寺への道すがら、考えます。内蔵助の友人であると思うなら、遺骸を見に行かないのは、友としての義に背く行為であった。辛くても見に行くべきだ。友松は本能寺に到着します。
獄門台に晒されている蔵之助の首級は、傷だらけで腐りかけています。それを見た友松は泣くし事しか出来ません。合掌後、粟田口に到着した時、周囲は真っ暗になっていました。
処刑場には篝火が焚かれ、手槍を持った番人が4人いました。遺骸が括り付けられた磔柱が闇夜に浮かびます。野犬が死肉(内蔵助の遺骸)を食べようと、磔柱に飛びかかります。
友松は、投石して野犬を追い払います。番人に追われますが、無事真如堂へ帰り着きます。次の日、友松は早速、長盛に掛け合います。「あのままでは、内蔵助殿の遺骸は野犬に喰われてしまう。あれ程の武士をその様な目に遭わせるわけにはいかない」
「無論。しかし、どうなさるおつもりで?」
「明日の夜、処刑場から遺骸を奪い、この寺に葬りたい。如何かな?」長盛は頷きます。
「しかし、4人の番人はどうする?」
「私が囮になるから、その間に遺骸を磔柱から降ろして、真如堂迄運んでほしい」
「よし。仏様に関わることは、拙僧が引き受けよう。だが囮は怪我や命に係る。大丈夫か?」
「私も武家の出身です。内蔵助殿の為に今一度だけ、鎧具足に身を包みましょう」
長盛との相談が纏まったので、友松は武器を借りに石谷屋敷を訪問します。
石谷屋敷の当主は、内蔵助の実兄・石谷兵部少輔。友松が用件を言うと、当主は何も尋ねることなく、快く鎧櫃を開けて、鎧兜一式と太刀・脇差・長槍を家人に持ってこさせました。友松が鎧兜に見とれると、当主は静かに言います。「これは内蔵助殿が若き日に愛用されたものです。弔いには相応しいでしょう」準備は整いました。久しぶりに長槍をふるうと、友松の気持ちは高揚してきました。後は夜が更けるのを待つばかりです(筆者は50歳を過ぎた友松が、重い具足を着用して動けるか心配ですが)。
棺桶を寺男に担がせた長盛と合流して粟田口へ歩き始めます。その夜道はまるで地獄へ通じているようです。長盛に手伝ってもらい、兜を被り、具足面頬を着けます。その姿は、まるで斉藤内蔵助が蘇ったようです。いざ出陣。友松は長槍を使い、野犬の腹を串刺にします。番人たちは、明智の残党が出たぞと言いながら手槍で向かってきます。友松は、粟田口の処刑場から離れ走ります。長槍を持たせたら友松は無敵です。番人は到底敵いません。
友松がもう一度処刑場へ戻ると、磔柱が残っているだけでした。どうやら、長盛は無事に内蔵助の遺骸を真如堂迄運びだしたようです。友松の気持ちは、内蔵助が憑依していたかのような高揚した気持ちから嘘のように沈みます。自分にできたことと言えば、この程度なのだ。いや私にはもっとなさねばならぬことがあるはずだ。自問自答する友松の頭に、安土城とともに自分の絵が焼かれたときの永徳の呆然とした顔が浮かびました。しかし永徳ならば、また素晴らしい絵を描くだろう。ならば自分は、明智光秀と斎藤内蔵助が夢見た世を表すような絵を描こうと決心します。
此処から数年、友松の消息は途絶えます。一方、狩野永徳は、秀吉に気に入られ、大阪城の櫓や御殿、天守に絵を描きます。高価な金泥を使い、牡丹唐獅子や檜をモチ-フに、後に恠恠奇奇とよばれる画風を確立し、秀吉や有力大名から注文を受け、休むことなく描き続け、1590年に亡くなりました。享年48歳。晩年の代表作「唐獅子図屏風」「檜図屏風」は現在も高く評価されています。狩野元信の孫として生まれ、安土城の襖絵作成に当たっては、家督を弟に譲り(信長の不興を買ったときの用心の為)、狩野派隆盛の使命を果たした永徳でした。
ある意味、現代なら過労死ではないかと疑われるぐらい、画業に打ち込みました。(つづく)