魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

葉室麟『墨龍賦』其之弐

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海北友雪筆『海北友松夫妻図』。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第二回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る③友松、斎藤内蔵助を訪ねる。

1571年9月、信長は、比叡山延暦寺焼き討ちを敢行します。実は近江の六角義賢よしかた比叡山にこもる浅井・朝倉連合軍、そして石山本願寺住職・顕如けんにょたちによる“信長包囲網”を崩すためでした。
信長は、法華宗妙覚寺を定宿としています。妙覚寺は仏敵信長を何故歓待するのでしょうか?
二つの噂があります。妙覚寺貫主かんじゅ日饒にちじょう上人は、斎藤道三の実子であると。そうであれば、信長とは正室帰蝶濃姫のうひめ)を通じて義兄弟になります。それ以外にも何かあるのでしょうか?もう一つは、道三が信長に宛てた“国譲り状”は偽物ではないのか?イヤそもそも“国譲り状”そのものがなかったのではないか?との噂です。安国寺恵瓊えけいはすかさず、海北かいほう友松ゆうしょうに依頼します。斎藤内蔵助くらのすけ利三としみつ)を訪ねて“四方山話”をしてくれ、と。友松も僧侶ですから、資金力のある法華宗と信長が結び付く危険性は理解できます。
幸い内蔵助は、岩谷の屋敷に戦の傷養生で在宅していました。内蔵助は言います。信長が妙慶寺に宿泊するのは、“国譲り状”(斎藤道三が娘婿の信長に美濃を譲ると記した書状)が妙慶寺に置かれているからである。そして“国譲り状”の真偽については、そもそも“国譲り状”は存在しない。何故かというと、斎藤道三は美濃の守護代の家格に過ぎず、“国譲り状”を記す権利は国主の土岐頼芸よりのりにあるからです。道三は主を裏切り、美濃を乗っ取った極悪人です。
内蔵助の言い分は、筋目としては真っ当です。内蔵助の主人の明智光秀は、土岐氏の末裔で、信長の正室帰蝶は従姉妹に当たります。光秀は密かに、子宝に恵まれず、人質同然の暮らしをしている帰蝶を救いたいと思っている節があります(本能寺の変の遠因か?)。友松には、内蔵助が“国譲り状”の真偽を確かめてくれと訴えているように思えるのでした。さて友松が妙慶寺に潜入するには、どのような方法があるのでしょうか?

春日局は語る④友松、狩野派の絵師となる。

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国宝『上杉本洛中洛外図屏風』(狩野永徳筆)より「細川殿」。ウィキメディア・コモンズより。

天正元年(1573年)、事態は動きます。信長と仲違いした足利義昭が挙兵しますが、信長に敵う筈もなく、毛利家を頼って落ち延びます。友松に、狩野源四郎改め永徳から声がかかります。何でも狩野派が生き残るためには、幕府の御用絵師を続けるよりも、織田信長の気に入る絵を描いたほうが良い。そのためには友松の画力が必要だというのです。確かに永徳の<洛中洛外図屏風>は信長の意に沿うものとなります。そんな友松に凶報が届きます。浅井家の居城小谷城織田信長に攻められ落城し、城主の長政・久政父子は自刃します。友松の長兄善右衛門や親族も一同討ち死にを遂げます。海北家は滅亡しました。友松は“国譲り状”の真偽が分かれば、信長の力を削減出来るかと望みをかけます、
病床の日饒上人から「美濃の“国譲り状”を手に入れて一矢報いたいか」と問われ、頷きます。
何故友松と会う気になったのかというと、信長は法華宗の宗徒(主に商人)から矢銭やせんと情報(大名の動静)を入手活用していて、法華宗徒の助力があればこそ成り上がれた彼は今、すでに用済みなのか、法華宗を捨て、比叡山のように焼き討ちにして、キリスト教勢力に乗り換えようとしている。だから妙覚寺は反信長に方向転換したのでした。上人が懐から取り出した肝心の“美濃国譲り状”に友松が目を通すと、信長は一切出てきません。“国譲り状”と呼ばれる書状は存在しないのです。信長は、“国譲り状”が存在することで、美濃を手に入れる正当性が保証される等の謀略のもとに、“国譲り状”をでっち上げたのでした。日饒上人は“国譲り状”が偽物であると証明する書状を友松に渡します。友松は内蔵助に会います。結局、帰蝶に目通りして真相を伝え、“国譲り状”が偽物であるとの日饒上人から預かった書状を帰蝶に渡し、その上で光秀に謀反を起こさせる原動力としようということになります。友松が帰蝶に渡すことになりました。内蔵助は「自分は戦場でいつ果てるかもしれない身だから」と言うのですが、短気な筆者は随分まだるっこしい話だなと勝手に思います。

春日局は語る⑤友松、安土にて、帰蝶と面会する。永徳、安土城の内装のための絵を描く。

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重要文化財『婦女琴棋書画図』(海北友松筆)より、巻物を繰り広げて絵画を鑑賞する貴婦人たち。ウィキメディア・コモンズより。

1579年、友松は『婦女琴棋書画図』を描きました。口の悪い永徳も、これならば狩野派の絵として世に出せると言います。しかし友松は山水画を描きたいのです。狩野派の門人十五、六人を選んで安土に赴くことになりました。永徳は、安土城作事奉行の丹羽長秀に挨拶をします。
狩野派ならでの贅を尽くした絵の説明をしますが、丹羽長秀は「上様が気に入らなければ、お前たちの首を刎ねる」とだけ言いました。癇癖の強い信長のことですから、単なる脅しとは受け取れません。
作事を続ける日、正室帰蝶に呼び出されます。友松は、宗論しゅうろんが行われている淨厳院で、帰蝶御前に面会します。用件はズバリ「そなた、妙覚寺の日饒上人より書状を預かっていると斎藤内蔵助殿から聞いたが、まことか?」「日饒上人は、何か言っていたか?」です。そして、書状に目を通した帰蝶は「上様は、役に立つ間は人を大事にするが、役に立たぬとなれば捨て去る方だ」と言い、更に「これはわたくしがもらっておきましょう」と言い、打掛を翻して去っていきました。帰蝶は信長に叛旗を翻す気でしょうか?ともかく、友松は書状を渡す使命を果たしました。(つづく)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

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