表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
葉室麟『墨龍賦』(PHP文芸文庫)を読了して。
2017年12月23日に急逝した葉室麟が、この世は不条理に満ちて苦しいからこそ、美しく生きねばならないのだとの信念を、絵師海北友松の生涯と作品(=建仁寺の黒龍図)を著述することによって示しています。自分の徳行を語らない海北友松、主君明智光秀に従った斎藤蔵之介、尼子家再興に挑んだ尼子勝久や山中鹿之助等の魂の美しさを追求した長編歴史小説です(彼らは望みが叶わない事を予感していた)。
時代は1533年頃~1615年頃、長谷川等伯や狩野永徳に引けを取らない才能に恵まれ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生き抜いた(享年83歳)遅咲きの絵師海北友松の生涯を辿ってみましょう。澤田瞳子の的確で暖かい解説もついていますよ。
小谷忠左衛門(海北友雪)、京都所司代に呼び出される
1632年、2代将軍徳川秀忠の崩御直後、小谷忠左衛門(祖父は浅井家家臣海北善右衛門綱親、父は絵師海北友松)は、突然京都所司代に呼び出されます。恐る恐る用件を尋ねると、江戸へ赴き、江戸城にて春日局に面会せよとの命令でした。京都では、春日局の評判は悪いです。それは、春日局こと斎藤福は、徳川幕府の只の侍女(家光の乳母)なのに、武家伝奏三条西実条の猶妹となり、春日局の称号と参内を許されたからです。公家達にとっては我慢のならないことであったでしょう。
何故春日局が自分を召し出すのか?てんで分かりませんが、忠左衛門は役人帯同で一ヶ月をかけて江戸に到着します。
忠左衛門、春日局に面会する
平服する(時代劇でよく見られる「ははーっ」と頭を下げる所作をする)忠左衛門に、春日局は下問する。
「そなたが海北友松様の息子殿か」権勢を誇る春日局が一介の絵師に丁寧な口の利き方をします。更に言います。「友松様には、昔世話になった。そなたには、江戸に住み、絵師として生きて行けるよう取り計らう」幕府御用達の狩野派には、春日局自身が話をつけてあるのです。
忠左衛門にとっては望外の喜びですが、「世話になった」の意味が分かりません。寡黙な父からは何も聞いていないのです。一介の絵師海北友松と、春日局の父斎藤蔵之介利三(明智光秀の刑死した重臣)との何処に接点があり、友となったのだろうか?それを見てとった春日局は語り始めます。
春日局は語る①斎藤蔵之介との出会い
忠左衛門の父海北友松は、1533年、近江の浅井家家臣、海北善右衛門綱親(浅井亮政に従って戦死)の3男として生まれる。13歳で東福寺の喝食となる(絵と武術の稽古は続けます)。僧侶の身なりをしても、心では武士と思っているので周囲とは馴染めませんが、東福寺境内で恵瓊と出会います。後に毛利家の外交僧として活躍する恵瓊ですが、やはり父は武田信重(銀山城主)でした。その交流は、恵瓊が関ヶ原合戦後、六条河原で斬首されるまで続きます。もっとも友松は、恵瓊を常にさかしらで情が無く、上から目線の奴と思っています。そんなある日、京都では幕臣石谷兵部の娘桔梗が四国の長曾我部元親に嫁ぐ事が評判となり、物見高い京都人は、美しいと評判の花嫁の顔をひと目拝まんと、花嫁の乗る輿を担ぐ前方の2名の小者をわざと転ばせますが、武士の心を持つ友松は、飛び出して石礫を浴びながら、輿を担ぎます。この時石礫を投げる者は謀反人とみなすと大音声を上げ、その場を治めたのが、斎藤蔵之介でした。桔梗の兄にあたります。それが斎藤蔵之介との出会いでした。
桔梗と蔵之介は、友松に対して折り目正しく礼を言い、お互い相通じるものを感じます。ある日、東福寺退耗庵に、只一人きりの供を連れた明智光秀が訪ねてきます。恵瓊の師匠竺雲恵心に用があるようです。道案内をした友松は、名も知らぬ明智光秀に、何か只者ではない、蛟龍のごときイメージを感じます。後日蔵之介の屋敷に行くと、そこには長曾我部元親(桔梗の結婚相手)と明智光秀がいて、酒宴を開き、人物評や各々の軍備の程について、情報交換をするのでした。ここで明智光秀は織田信長について、虎狼の心を持ち、この世の仕組みを壊そうとする男だと評しました。
春日局は語る②恵瓊に触発されて旅立つ
狩野永徳が東福寺にやってきます。祖父の狩野元信と同じように、友松の絵を酷評して帰ってゆくのでした。狩野派の絵師になるのは無理だと言われます(御用絵師の描く絵ではない)。1565年、友松は恵瓊に同行して、山陽道を旅します。この頃の京都は、三好三人衆が暗躍して室町幕府将軍足利義輝を惨殺する等、物騒なので、蔵之介は美濃へ戻り、光秀は越前朝倉家のもとにいます。恵瓊に出雲周辺を旅しないかと誘われます。恵瓊は毛利家に用があり、友松は毛利家所有の雪舟の「山水長巻」の巻物を見たいからです。雪舟を堪能した後の帰り道、冨田川の中州で、品川大膳と山中鹿之助との一騎打ちに遭遇します。友松は荘厳さを感じます。一旦東福寺へ戻り、僧の天雲が還俗して尼子勝久と名乗り、山中鹿之助を従え、出雲に旅立つのを見届けます。路銀は出すから、尼子勢の様子を探ってくれとの恵瓊の依頼を受け、私は言いたくない事は言わない、ただ武士が戦う姿を見たいだけだとの条件のもと、友松は旅立ち、出雲の尼子家の末次城に落ち着きます。1570年2月24日、末次城は毛利家によって開城され、友松は京都に戻ります。
この頃から、友松は、戦に巻き込まれて死んでいく民の悲惨な絵を描くようになります。(つづく)