魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岩井三四二『あるじは家康』

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天一笑さんから表題の歴史小説についての内容紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


『あるじは家康』(岩井三四二著、PHP研究所)を読了して。
時代小説に新境地を開拓し続ける名手岩井三四二が挑む「あるじシリーズ」の家康篇です。主な登場人物は年代順に

  1. 竹千代の少年時代(駿府・少将之宮在住中)から側に仕える石川与七郎数正
  2. 一向一揆に散る蜂谷半之丞
  3. 長篠の戦の勝者側の奥平九八郎貞昌
  4. 本能寺の変の直後、家康と共に命懸けの伊賀越えをする茶屋四郎次郎
  5. 石田三成に責められて伏見城で討死する松平家忠(この時、本丸には鳥居元忠が配置される。ここが味噌なのですが)
  6. 日本史の教科書に必ず記載される有名な三浦按針(ウィリアム・アダムス)
  7. そして掉尾を飾るのが徳川秀忠の付家老として辣腕を振るった隠居の道白こと大久保忠隣

これら家康に翻弄された七人です。凡そ西暦1549年~1615年頃の時代小説です。
彼らは、家康と関わらざるを得ない立場なのだけは、共通しています。
彼らは、家康に粉骨砕身して仕えて何を得たのでしょうか?時には命懸けで。

<目次>

三浦按針

三浦按針のように、心身共に報われたのは稀でしょう。ご存知のように、南蛮船リ―フデ号の乗員で日本に漂着したウィリアム・アダムスです。家康の命令によって、江戸まで連れてこられた時に臆せず面会した心証が良かったのか、実用的に当時の日本にはなかった幾何学天文学の知識を正確に教えることの出来る点を買ったのか(勿論通訳がつきます)、キリスト教の布教活動をしなかったのが良かったのか。いずれにしても家康の眼鏡に叶ったのです。家康に命じられて、西洋式の帆船を造る事になったウィリアム・アダムスは、帰国を条件とします。なかなか難しいのですが、保存されていたリーフデ号の図面や本体を参考にして、資材や建造の場所確保は御船手奉行向井将監の協力を得て〈まあ国家事業ですね!〉80トンの新造船を完成させます。褒美として家康はウィリアム・アダムスに、知行地三浦250石と日本名三浦按針を与え、旗本として遇しました。旗本が独身では格好がつかないので日本人妻も世話します。異例の好待遇ですね。それに応えるように三浦按針も又120トンの船を造ります。更に1609年には日本との交易を望むオランダが長崎平戸にオランダ商館を開く事を幕府に要望します。アダムスは通訳兼案内人・親書の翻訳・幕閣への根回し等八面六臂の活躍をして、家康から商館開設の許可をとります。
望郷の念が抑えられないウィリアム・アダムスは、帰国のチャンスを掴みます。1613年ジェームズ1世の親書を持った東インド会社の英国船グローブ号が、日本との交易を求めて平戸にやって来ます(当時オランダとイギリスは同盟国)。ウィリアム・アダムスはこのグローブ号に乗船して帰国する希望を家康に上申します。
この時、家康はウィリアム・アダムスの帰国をやっと許可します。「そなたがそこまで申すなら、帰国を止めてはわが後生の障りとなろうな」との言葉をもって。晩年の家康には珍しく船を造ったら帰国を許すとの約束を守る、律義者の家康が発揮されて幸運でした。

家康の最晩年に視点を当てた『家康の遠き道』では律義者家康は決して出てきません。
1609年より少し前家康は、駿府人質時代に家康主従に蔑みの態度で接した少将之宮屋敷の隣人、孕石屋敷の主人孕石主水を切腹させています。人を遣い探させます。家康は天下人の実感を得て、人質時代の鬱憤が晴らしたかったのでしょう。絶対権力を使う事を躊躇わない家康の姿が見えます。

石川数正

又、石川数正も少年時代から家康に近侍していました。孕石主水が苦手でした(何せ三河の子倅の家来ですからね)。家康の懐刀として活躍し、苦楽を分け合った仲のはずでしたが、何故か1585年小牧長・長久手の戦いの頃に家康側から豊臣秀吉側に出奔します。何故かは諸説紛々です。紆余曲折を経て1590年松本城城主に収まりました。築城も本人がしたようです。没年もはっきりしません。只家康が絶対権力者になる過程で、家康の調略の巧みさを垣間見る機会が沢山あったと推察されます。結果出奔の報復を、家康から受ける事は無かったようです。

蜂谷半之亟

家康が22歳の頃(桶狭間の戦い今川義元が敗死し、岡崎城城主になった頃)、西三河で、手強い一向一揆が起こります。表面だけ見ると一向宗信徒と家康の戦いですが、実父松平広忠の時代に一向宗の寺と取り決めた、寺内不入の権利を取り消したい家康の深謀遠慮がみえます。家康の馬廻りで三間槍の名手蜂谷半之亟は込み入った家康の腹芸を読めるはずも無く、焦って出陣し三河での地歩を固めたい家康に使い捨てにされ戦死する。

奥平貞昌

1573年長篠合戦の時、長篠城の守将を家康に命じられた奥平貞昌の話です。
奥平家は奥三河の国人衆です。地政学的に甲州武田家か三河松平家(徳川家)のどちらかに帰属しないと奥平家を保てません。徳川家に帰属し、のちに武田家に転ずるも信玄の死亡の頃を境に徳川家に再帰属します。当然徳川家には信用されないので、最前線となる長篠城の守備の責任者に任命されます。馬防柵の設置など城普請には苦労したようですが、武田軍の猛攻から城を守ったとして、信長・家康から褒美を受けます(後に家康と最初の正室築山殿との間の娘亀姫を娶ります)。家康の覚えめでたき身の上となります。ですが、奥平貞昌の心は晴れません。それは同じく徳川家に仕える大岡弥四郎が武田家に内通した、あるいは単なる能吏の域をでて恩賞の沙汰までした等の罪状で、鋸曳きの刑に処せられました。大岡弥四郎の妻子まで磔にかけたのを弥四郎自身に見物させた。苛烈で執拗な処置です。裏切り者はこうなるとの見せしめでしょうか。以前武田勝頼の命令で、人質に出していた実弟を磔にかけられた過去を持つ奥平貞昌は内心を隠して、一層忠勤に励んだようです。誰に仕えるかで天国と地獄の差異があります。

茶屋四郎次郎

次は家康の祖父松平清康の代からの御用商人を務める茶屋四郎次郎です。信長に拝謁するために上京した家康をもてなしの用意をしている所からこの話は始まります。商人ではあるが、武士になり家康に仕えたい希望を持ち、本能寺の変で信長、光秀に弑逆さるの一報を自ら家康に注進を試みます。否応なしに伊賀越え(山中の間道を抜け伊勢にでる)に同道する事になります。家康と蜻蛉切の槍を持つ本多平八郎・石川数正酒井忠次など三河の譜代衆と共に伊勢・白子を目指します。
道中は困難を極めます。しかも家康は道中に嫌気が指して切腹の用意をしろと喚きだす。光秀の兵や暴徒に襲われないように、茶屋四郎次郎は、道案内の者に銀を惜しみなく与え、一行の寝泊まりの手配等します。近くにいる家康派の領主には、先触れを走らせ、保護や道案内を求めます。やっと、伊勢白子に着いた茶屋四郎次郎は知り合いの角屋を通じて三河にでる船を手配します。疲労困憊した茶屋四郎次郎に家康の口からでた言葉は「ようしてくれた」。主人が商人に向って言う言葉ですね。道中3日間の気持ちのもっていきようがありません。人の気持ちがわからない。ここにも、晩年の家康のサイコパスの萌芽が見られます。茶屋四郎次郎は、家康に割り切れない気持ちを抱いたまま、子孫にも約束された不動の御用商人の地位を確保します。伊賀越えに蕩尽した銀を稼ぐ意味もあって家業に精をだします。

松平家忠

次は家康の親族の三河の深溝の領主、松平又八家忠の物語です。彼らは、岡崎城城主(当時は浜松城城主家康を本家(宗家)と位置付けている)の分家・親族の十八松平の一つです。父祖の代から三河に住み三河で一生を終えるのが当たり前でした。ところが、家康の秀吉による関東移封が彼らの運命を大きく変えます。表向きは仕方なくの移封ですが、家康にとっては、組織入れ替えのチャンスがやって来ました。松平一族挙げての移封なのですから、父祖以来の地縁・血族によるしがらみをご破算にして、煙たい親族を分解するチャンスです。親族ではあるが、家康とは同格ではなく臣従する立場と世の中に知らしめる。そしてそれは成功します。最後の仕上げが、石田三成の「内府ちがいの条条」に端を発する、伏見城の合戦です。
勿論家忠も合戦に馳せ参じます。形通りに三成は降伏を勧めますが、50年家康に仕える鳥居元忠が降伏をする訳がありません。勝目の無い防戦になります。家康は鳥居元忠三河譜代)の気質を知悉しています。そこが家康の狙いです。この「内府ちがいの条条」の延長線上に関ヶ原合戦があります。天下の欲しい家康のシナリオ通りに事は運びます。形としては、家康の命令どおりに戦い討死した忠臣たちですが、その実、家康にとっては、伏見合戦は用済みになった松平一族・三河譜代の家臣たちを処分した事になります。彼らは皆隠居の年齢ですが、家は続くよう嫡男達は既に成人して何某の地位についています。その事に気がついた家忠は、肚の底から家康を憎みながら切腹します。家康には都合のよいロートル一掃ですね。
そして、彼らとの関係の延長線上に『家康の遠き道』が存在します。いきなり、サイコパス家康に変身・人替わりしたわけではなく、その萌芽がこの著作の随所に現れています。言わば時宜を得た変身と言えるでしょう。

大久保忠隣

『あるじは家康』の掉尾に相応しい登場人物は、以前、幕閣筆頭年寄だったが、家康に謀反の疑いをかけられ失脚した隠居の道白こと大久保少輔忠隣です。本田正信・正純父子との権力闘争に敗れ、配流先の近江で、清凉寺の和尚と将棋などさしているのですが、ある日突然江戸より、道白の濡れ衣が晴れたので、上様(この時は秀忠)にお目通り願うとの使者がやってきます。道白は耳が遠いのか、遠い振りをしているのかは定かではありません。江戸の大久保家からの使者荒谷清十郎ばかりではなく、彦根の井伊家家臣や、土井大炊守家中の使番やら賑やかな説得工作が繰り広げられるのですが、道白は頑として江戸行を諾とは言いません。和尚が理由の核心に触れそうになると、腹痛の芝居をして追い返します(和尚は使者たちに助力を頼まれています)。果ては荒谷清十郎が主命を果たせないならば、と切腹騒動を起こします。
道白はなぜそこまで、江戸行に諾と言わないのでしょうか?道白は家康に消えることのない遺恨を抱えているからです。その遺恨とは、即ち家康に「狡兎死して走狗煮らる」の扱いを受けて罪人扱いされたからです。大久保家は家康の曾祖父のころから、松平家に仕えてきました。おそらく、三河の松平郷に松平家在りと謳われた頃からでしょう。4世代に亘って、気が遠くなりそうな時間松平家に仕えてきたのです。家康の世代では、三河一向一揆のとき大久保家を勝者側と敗者側にわけても家康に忠実に戦い、武田信玄との三方ヶ原の戦など数えればきりがありません。道白は子供の頃から家康に従い最前線で働きました。その粉骨砕身が実って、平和な世の中になったとたん用済みとばかりに、配流の身の上になってしまいました。孫がいるので大久保家は存続しています。家康に煮て食われた狗には狗の意地があるわけです(道白は自分でも自覚のある通り、戦働きは抜群でも、政治の権謀術策には向きません)。そこで道白は使者たちに話す。私が江戸へ行きたくないわけは、謀反の疑いをかけた私を許すとなればそれは、秀忠(上様)は大御所様(家康)の判断が間違っている事を認める事になる。臣下としてそれは出来かねる。あるじが間違っていても臣下はそれにしたがう、との言上を使者に持って帰らせる。自分は主君に裏切られても自分は忠義を尽くす。この美談が世の中に喧伝される事を願ってこの物語は終わる。道白の遺恨は少しは軽くなったでしょうか。胸の恨みの渦は治まったでしょうか。

徳川家忠や鳥居元忠の例をそうですが、家康は神になる為に三河譜代衆を磨り潰して利用し尽くしました。人の痛みの分からないサイコパス家康が丸出しになっています。
弱小武家の家に生まれた家康が生き残る為には、権力者になるのが一番確実だったのでしょうか。余程人質時代が身に応えたのでしょうか。でも家康は落魄した今川氏真にはそんなにひどい扱いはしませんでした。各人各様の生き方があるみたいな感じです。

いずれにしても、彼らとの関係の延長線上に『家康の遠き道』があります。家康がその遠き道を意識する頃には彼らは家康の側にはいません。三河譜代衆は神の身になりたい家康にとっては、使い勝手の良い道具だったのかも知れません。
組織の中で身の処し方に思い煩う方、従来の家康観を疑問に思う方にお勧めします。

天一


*一天一笑さんによる岩井三四二『家康の遠き道』のレビューはこちら