魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊良子清白の「不開の間」

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世界一保存状態がよいとされるロザリア・ロンバルドちゃん(Rosalia Lombardo, 1918 - 1920)のミイラ。ウィキメディア・コモンズより。

ところで私は、実は死ぬまでに詩集を一冊出版するのが学生時代からの夢なのでした。その中で特に私があこがれていた詩集、「こんな本を一冊書いて死にたい」と夢みていた詩集、それが伊良子清白の唯一の詩集『孔雀船』で、今回はその中の一篇に触れてみたいと思います。
ちなみにこの伊良子いらこ清白せいはくという人ですが、この人は明治の新体詩詩人で、少年時代から盛んに詩を書いて雑誌発表していたが、薄っぺらい処女詩集『孔雀船』一巻の刊行を機に詩筆を断ち、地方の開業医となって世間から忘れられた人です。昭和になって日夏ひなつ耿之介こうのすけが『明治大正詩史』の中でこの『孔雀船』をほめちぎったため、ふたたび世間の脚光を浴び、ハイネの訳詩などを数篇公開したようですが、才能の枯渇はいかんともしがたく、結局詩壇に返り咲くことなく世を去りました。
今「才能の枯渇」と書きましたけれども、別に源実朝アルチュール・ランボーの例を引くまでもなく、こういうのはよくある話なのです。皆さんは岡田史子という漫画家をご存じでしょうか?私はまだ小学生のころ、虫プロの『COM』という雑誌でこの人の「ガラス玉」という作品を読み、それこそ一生忘れられない衝撃を受けたもんです。この人も若年期に筆を断ち、さっさと東京から故郷の北海道へと引き上げて、そこで嫁に行ってしまいました。のちに旧友萩尾望都の熱烈なカムバックコールを受けて世間が動き出しましたが、本人は「才能の枯渇」を理由にふたたび筆を執ることはありませんでした。
今、ちょっとこの二人(伊良子清白と岡田史子)の作品を頭の中で比較してみますと、やはり何か共通点があるような気がします。イメージの過剰―――言わば豊富すぎるイメージの氾濫による人格的無政府状態と言ったものが、本人たちの意図とはかかわりなく表現されているのではないでしょうか?
ちなみに私は今‘RYTHEM’という女性デュオの2枚目のアルバムを聴きながらこれを書いているのですが、この2枚目まではよろしいのですが、それ以後の彼女たちの作品にも、やはり同じような「才能の枯渇」の兆候を認めます。

「桜吹雪( Shower of Cherry Blossoms)」。埼玉県大宮公園にて。ウィキメディア・コモンズより。

さて、伊良子清白の「不開あけず」を読んでみましょう。全文は『孔雀船/邪宗門: 明治文語詩傑作選 (一天社古典文庫)』をご参照下さい。
まず形式をみましょう。昔の新体詩詩人というのは、今の自由詩ばっかり書いている詩人と違って、形式上の細かい点にも非常に気を使ったもんです。一節5行×11節の55行。また各節の5行はちゃんと拍数が決まっていて、

5拍
4拍
5拍
5拍
5拍

という構成です。新体詩というのは、もちろん五七調、または七五調を基本として書かれるのですが、ここでは7拍の句を入れず、5拍の句ばかりで構成することで、何かしら沈滞した感じ、また季節が春ですので、春の日の何かしらけだるい雰囲気を表現することに成功しました。
また2行目が4拍しかありませんが、これは当時としては斬新な趣向ですね。4拍の句を多用した詩を発表して世間を驚かせたのは蒲原有明ですが、ここにもその影響が出ているのでしょうか?
次にその内容ですが、全体が一篇の物語となっておりまして、ヒロインは「たちの姫」と呼ばれるお屋敷のお嬢さんです。ある日、彼女は邸宅の本殿を離れて、花咲き乱れる庭をさまよう。

花吹雪
まぎれに
誘はれて
出でたまふ
たちの姫…

優雅にして力強い歌い出しで、読む者を一気に幻想の世界へと引きずり込みます。
彼女が足を止めたのは、本殿から少し離れたところに立っているやぐらで、「不開の間」として近づくことを禁じられている部屋の前でした。

夢の華
処女をとめ
胸に咲き
階段きざはし
のぼるか

この節の最終行は4拍となっており、破格です。「のぼりたり」とでもすれば拍数は合いますが、ここは私も何度も考えてみましたが、どうしてもこの「のぼるか」でなければならないようです。
さて、このとき彼女の胸に咲いていた「夢の華」の色かたちは知る由もないが、「不開の間」の中で彼女が見たものは、意外にも、完全に死蝋化したある青年の遺体でした。

し瞳
炎に
身は燃えて
死にながら
輝けり

この瞬間、姫は手足の自由が利かなくなり、そのうしろで扉がひとりでに閉まります。前の節でわざわざ「恋人を持ちながら埋められぬ」と断っているところを見ると、これはどうやらこの死んだ青年が姫を新たな花嫁として選んだ、と解して間違いなさそうです。「不開の間」の掟を破った報いが彼女に降りかかったのですね。

何知らぬ
禁制いましめ
姫の裾
なほ見えぬ
扉とづ

この詩が書かれた頃に「活動写真」がどの程度普及していたのか知りませんが、「不開の間」の内部を映していた視線が、急に扉の外に出てきて「姫の裾」が見えるのを待つ、というあたり、近代映画の迅速なカメラワークを思わせます。最終節、

白壁に
る虫
春の日は
うつろなす
暮れにけり

この壁面の虫がいきなり大写しになるところなども、きわめて「近代的」な映像技術を連想させます。こうして惨劇は誰にも知られることなく、春の日は何事もなかったかのように暮れてゆくのであった…黒い結末ですね。
あの、ここで私が言いたいのは、このような伝奇的要素を豊富に含んだ作品、謎とロマンに満ちた作品と言うものが、日本の詩には極めて少ないということなんです。日本の詩というのは、こう言っては言い過ぎかも知れませんが、今も昔も古くさい私小説の延長線上にあるような、しみったれた凡人の独白から脱却できていない。ここのところが十代のころから私が大変不満に思っていた点で、そういう私の渇きを癒してくれたのが、この『孔雀船』の中の数篇だったという次第です。