表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
村木嵐『阿茶』(幻冬舎)を読了して。
武田家家臣・飯田直政の娘として生まれ、後に今川家家臣・神尾忠重に嫁ぎ、やがて縁あって徳川家康の側室となり、二代将軍・徳川秀忠の養育係ともなる、阿茶の局(須和)の物語です。
徳川家康に勝るとも劣らない“知恵”をもち、いわば二人三脚で、“一体どうすれば天下が取れるのか”と、戦国時代を独特の遊泳術をもって乗り切り、やがて豊臣秀吉に臣従することも厭わず、江戸幕府を開く(朝廷から家康が征夷大将軍に命じられる)までこぎ着けた裏方の知恵袋ともいえる阿茶の八十三年の生涯を描いた、渾身の歴史小説です。
また何故徳川家康はキリスト教を禁止したのか、そして自ら久能山に神号“東照大権現”と、正一位の神階を望んだのか(そうあらねばならなかったのか)も解き明かされます。
キリシタン大名・高山右近を通じて、キリスト教の経典(巻一・巻二)を読み、キリスト教の奥義を悟った徳川家康は、何故キリスト教と徳川幕府は並び立たないとキリスト教禁止令を発出し、鎖国し、外国との貿易は長崎・出島のみとし、徹底的に管理したのか。
徳川家康から阿茶に下賜された、京都で和訳された“巻二”の行方はどうなったのか。
物語全体は第一章「狭間の人」、第二章「昧見姫」、第三章「腕くらべ」、第四章「関ヶ原」、第五章「天下人、右近殿」、第六章「宝玉の椅子」から構成されています。
第一章「狭間の人」では、今川義元が桶狭間の戦いで敗死した後の今川家の内紛と婚姻同盟を結んでいる武田家の動静と、“三方ヶ原の戦い”では勝利をおさめているものの、武田信玄公の“戦い方や”軍馬“の微妙な変化を発見する神尾忠重と須和。
武田家の先行きは暗いと見切った神尾忠重は、妻・須和と一子・猪之助に最後の願いを託す。その願いとは「家康に仕えよ」だ。
神尾家は幼少の頃の家康(「竹千代」の頃)を預かったことがあった。
三月あまりではあるが、人質の家康を、神尾家は決して粗略には扱わず、丁重に迎えた。
忠重も寝起きを共にした。忠重の家康評は、今川義元の軍師・雪斎の教えを身に着けて、子供らしい我が儘を言わず、癇癪を起こすことの無かった印象だった。
子供心にも感心した忠重が「家康に仕えたい」と言うと、「松平家より今川家に居る方が御身の為」との答えだった。
もし家康がこのことを覚えているならば、須和母子が仕えるチャンスは有るかもしれない。
いずれにしろ、このまま武田家滅亡を待つよりは、余程良い選択だろう、と。
だだし、歩いて行け。須和は尼姿で猪之助を連れ、本多正信の屋敷にたどり着く。
首尾よく、家康に目通りできた。家康は神尾忠重の事を記憶していた。
忠重の年齢や、生来左ききであったことも。そして武田家から松平家への士官替えを、夫の遺命以外、そなた自身はどう思うと問われた須和は、臆せず申し述べる。
まず眼前のやらねばならぬ事をする。すると次に為すべきことが開ける。為すべき道、人の義の道を歩けば、世の中が進む。家康は尋ねた。
「いつか戦の無い世がくるのか?」
「わかりません。私が今なすべきは、猪之助に道をひらいてやることでございます」
家康は言った。
「猪之助ぐるみで当家に召し抱えよう。ただし、側室となれ。ちょうど今日は八十八夜だ。士官の名は『阿茶』がよかろう。これから、そなたに面白い一生を送らせてやろう」
「まことに有難い名を頂戴いたしました。末永くよろしくお願い致します」
こうして「須和」改め「阿茶」の側室としての人生が始まった。
徳川家康は記憶力がよく、人質時代に、鷹狩りに必要なたった一羽の鷹をめぐって自分を冷遇した孕石主水を、後に切腹させている。
その行く手には、やがて「さい様」と呼ぶこととなる、姉妹のごとく助け合う“お愛の方”こと西郷の局、家康の最初の正室・築山御前と長男・信康母子、狩野光信(永徳の息子)、高山右近、細川ガラシャ、石田三成、淀殿とその息子・秀頼、お初(京極高次の妻)、お江与の方ら浅井三姉妹とも交流し、やがて家康を含めて沢山の人を見送る人生を生きてゆく。
秀吉没後、大坂城に出向き、淀殿と「大坂城を出るならば、豊臣の安泰を保証する」旨、交渉役にもなる。西郷の局が生んだ秀忠を養育し、後に秀忠の正室・お江与の義母、姑のような地位を得る。
晩年には秀忠の娘(徳川和子・東福門院)を後水尾天皇に入内させる。
側室の枠にとどまらない活躍をした阿茶の物語。お楽しみください。
一天一笑